北野圭介著『映像論序説―〈デジタル/アナログ〉を越えて』(2009)

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

現在、「映像」はあらゆる場所に溢れ、私たちの生活において不可欠のものとなっている。アナログからデジタル映像への変化、インターネットなど画面を通した双方向コミュニケーション技術の進歩とその爆発的拡大などにより、もはや「映像」はただ眺めるだけのものではなくなった。変貌した「映像」が持つ意味と、それが与える衝撃とは何か。北米のニューメディア研究、欧州のイメージの科学をはじめ、情報理論認知科学脳科学分析哲学、映画、ゲーム、メディアアート、フィクション論など、多岐にわたる分野を大胆に横断し、来るべき「映像の理論」を構築する、挑発的な一書。

序章
第1章 画面とは何か(アナログとデジタルの断絶と連続
映し出されたものと映し出されるはずだったもののあいだ)
第2章 映像と身体(見つめる身体と操作する身体
身体イメージの厚みと膨らみ)
第3章 映像とその外部(映し出された物語と語られた物語
遮断する映像と接続する映像)
結語 言葉と映像、その新たなる距離

36 北野「「ハリウッド映画」と「ハリウッド映画みたい」の間」【リンク
54「映画をめぐる二つの代表的な思考法、すなわち、フォルマリズム(形式主義)とリアリズム(写実主義)という二つの思考法のうち、マノヴィッチは、前者のフォルマリズムの系譜を特権的に扱っているきらいが強く、もっといえば、リアリズムの系譜に関しては、それを力業ともいえるロジックで脱臼させてしまうのである」
58「すなわち、(マノヴィッチは)バザンに対して真正面から挑むのではなく、まずそれを、その後に現れた、フォルマリズムの観点からより御しやすいリアリズム論のなかに組み込むという手順を採るのであwる。具体的にはこういうことだ。バザンを否定する身振りで登場したフランスの60年代(つまりバザンの次世代)の映画批評家の代表ジャン=ルイ・コモリによる、映画における"現実らしさ"の理解は、レンズや感光剤といった技術的問題、社会や産業の諸制度、観客の思考や感性の形式などによる複合的に決定されるものだというリアリズム理解、さらには、現代アメリカ映画研究の筆頭デイヴィッド・ボードウェルとその一派による、古典的ハリウッド映画におけるリアリズムとは産業体制に造形された「本当らしさ」の技法的強調にほかならないとする考え方と、バザンの考え方を並べ合わせ、世界と画面の間の関係という軸ではなく、画面と観客の間の関係に軸を置いた、効果としてのリアリティという方向へとリアリズム概念を転換してしまうのである」
97「(ロザリンド)クラウスは、50年代、60年代アメリカを跋扈したモダニズム美学に対して数十年にわたる理論的闘争をおこなってきたことで知られている。モダニズム美学とはこの場合、単純化の謗りを覚悟でいえば、芸術実践は、(1)作品において表現内容のみならず形式においても卓越したものでなければならない、(2)その際、形式とは各作品が自らを載せている表現媒体に規定されている以上、その媒体を特質に分析的な注意を払うこと(己を実現している表現媒体だけがもちあわせている特質を十分に意識しているかどうか)が不可欠である、とする芸術批評美学である」
98 「スタンリー・キャベル―バザン的な映画のリアリズムを信望し、それをほかの表現媒体におけるモダニストの実践と同一視する、つまり、映画はその媒体の特質においてすでに/いつもモダニストであると長年主張している哲学者」
136「1960年代に構造主義記号論精神分析学が映画研究に導入されて以来、映画をテクストとみなし、その記号構造の解釈がさまざまになされたわけだが、1980年頃から、そうした構造主義的もしくは精神分析学的映画研究に対抗して、認知科学的な映画研究のプログラムが台頭し、二つの相対立する学派となって寮舎ともに発展し今日に至っている。認知はの代表格は、デイヴィッド・ボードウェルおよび彼が教鞭をとっていた頃のウィスコンシン大学の卒業生からなる一群の研究者集団である。認知派の研究プログラムの考えでは、映像経験とは、認知科学―この研究プログラムでは、主として第一世代の認知科学が主な典拠となっている―が想定している思考の情報処理プロセスにほかならず、極めて意識的、自覚的、積極的享受のプロセスにほかならない。言い換えるならば、認知派は、精神分析学派が(アルチュセールマルクス主義と接続したイデオロギー文化装置を前提とし)主唱する、映像などの文化媒体が、主体が意識しないままにその価値意識や思考構造を構造化していくのだというような、観客を無自覚で受動的な存在とみなすような捉え方は、決定的に間違っていると強い口調で反論したのである」