宇野邦一著『映像身体論』(2008)メモ

映像身体論

映像身体論

「映画が新しい思考の対象であったことは、すでにベンヤミンパノフスキー、あるいは小林秀雄のような書き手によっても鮮明に表現されていた。しかし、思考も思想も、この新たな対象の、新たな対象性と非対象性を的確にとらえたといえるだろうか。それによって、思考は異なる思考として生成することができただろうか。また映画のほうも、そのような〈新しい対象〉として自己をよく実現し続けることができただろうか。いつも実現されたわけではないとしても、潜在性として、まだ〈新しい対象〉であり続けているだろうか。私たちはそのような潜在性の残骸のような作品や思想を、少なからずもっているにすぎないのではないか。もしそうなら、それらを新たに解読することが、わずかな潜在性の兆しに生命を吹きこむことになりうる」
映像メディアは、知覚と身体をいかなる次元に導いてきたのか。スペクタクル社会に空隙をうがつ「時間イメージ」の諸相とは、はたしてどのようなものなのか。ジル・ドゥルーズ晩年の主著『シネマ』の問いを受けとめつつ、「身体の映画」の新たな可能性を切り開く論考。

序章 映像のほうへ

第 I 部 映像身体論
1 映画という哲学的対象について
映画への抵抗 映画は思考されたか/映画の哲学/モンタージュと
見えないもの/壷とは何か/非中枢性と中枢性
2 フレームという恐ろしいもの
「画面外」に何があるのか/誤ったつなぎの創造性/マネとフーコー
「画面外」の身体
3 キアロスタミ
大地からイメージを掘り出す/聞こえないもの、見えないもの/
「交渉」の映画/ただ見開いた目/子供と「友」/視線の彼方、
関係の関係/民衆――〈単なる生〉の微粒子
4 イメージのイメージ
会話と視聴覚/『インディア・ソング』/出来事と物語/
イメージの極限、極限のイメージ
5 サルトルからゴダール
「イメージ」という語の多義性/イメージをめぐる闘い/
連結すること、切断すること/イメージなき宇宙へ
6 映画における神聖な身体
映画に固有の身体/『太陽』の身体/聖なる身体あるいは共同体
7 ヒッチコックの場合
間主観性と暗点/何が怖いのか/ヒッチコックあるいはオイディプス
視線の非対称性
8 知覚存在の政治学にむけて
〈未生〉の知覚/世界を見分けがたくすること/ブラジル映画の言語行為/
映像の奇妙な力

第 II 部 映像時間論
1 〈技術〉と〈群衆〉
2 エプスタン 物質の映画
3 映画とアルトー
4 新しい観客
5 バザンの時間
6 バザンの天使
7 現実はどこに消えたか
8 すばらしい無責任、あるいは

終章 身体のほうへ
1 視覚と身体
2 小津安二郎の時間
3 映画でなければ

28 ドゥルーズ『時間イメージ』279 「悪しき映画/真の映画」
39 ドゥルーズ『イメージ』小津『晩春』の壺、静物と時間、ドキュメント72時間
41

小津安二郎の家―持続と浸透 (Le livre de luciole (12))

小津安二郎の家―持続と浸透 (Le livre de luciole (12))

65 マルグリット・デュラス
デュラス、映画を語る

デュラス、映画を語る

94 デュラス『インディア・ソング』(1974)
119 テレサ・ハッキョン・チャ「大韓民国に生まれアメリカ合衆国で活動した作家、芸術家」(wiki
126「実在と観念を分割すること、実在と観念が相互否定することを、どこまでも斥けようとするベルクソンの哲学にとって、イメージは何らかのイメージではなく、すべてがイメージである。知覚は、物質の広がりから何らかの一部を限定的に知覚する。そのような一部はすべてイメージといわれるが、それは同時に物であり、物の知覚であって、実在とはそのようなイメージの総体である」
141 アントナン・アルトー脚本、ジェルメーヌ・デュラック監督『貝殻と僧侶』(1927)
189 グラウベル・ローシャ『黒い神と白い悪魔』『狂乱の大地』
207 ジャン・エプスタン「フランスの映画監督、黎明期の映画理論家」
209
戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)

戦争と映画―知覚の兵站術 (平凡社ライブラリー)

247 セルジュ・ダネー、70年代80年代、初期『カイエ』バザンの現実や自然への傾きを批判
252ジーバーベルク
264278 諏訪敦彦『不完全なカップル』(2005)