稲葉振一郎著『モダンのクールダウン』(2006)メモ

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンとポストモダンを通過した私たちにとって、「リアリティ」「公共性」とは何か? 東浩紀動物化論、大塚英志の物語消費論を導きの糸として、文学、SF、萌え、そしてアレントデリダも参照して、時代の「お約束」について考える。

目次
第一章 ポストモダンとは何(だったの)か
第二章 物体の解体と消費
第三章 「リアリズム」と「お約束」
第四章 表現における「公共性」
第五章 テーマパーク化する世界
第六章 人口環境と≪現実世界≫
第七章 「動物化」論の着地点
第八章 等質空間からの脱出
あとがき

p.8 「モダン」の多義性

モダンの五つの顔

モダンの五つの顔

p.17 ナチ占領下のフランスにおけるコラボ(対独協力文化人)p.55「「表の政治の裏がうごめく陰謀の物語」としての古典的スパイ・スリラーの域を超え、虚構の大事件を「表」の政治レヴェルまで含めて描く、今日的な、大雑把に言えばフレデリック・フォーサイス以降の国際謀略小説、政治小説というジャンルに先鞭をつけたのは、じつはSF作家たちでした。つまり「最終核戦争」もの、「第三次世界大戦」ものから、そのような流れがはじまったのです」
p.59「むしろ普通に考えれば、SFの主題は「異世界」よりも「異常な事件」です。ただしその異常性が、人間的、人間関係の水準にではなく、世界の基本構造の水準における異常性であwる、というところがミソです」。推理小説は人間的な水準でかいけつするが、SFは異世界の現実とは異なる法則性に還元する。
p.64
幻想文学論序説 (創元ライブラリ)

幻想文学論序説 (創元ライブラリ)

p.68 [「作品世界の現実性への懐疑」が濃い]×[「作中世界の実現可能性へのこだわり」が濃い]=メタSFの例として、P.K.ディック、「あるいはスタニスワフ・レムによる、架空の書物の書評や序文を書くことを通じて、人類の未来史についてのスペキュレーションを展開した『完全な真空』『虚数』あたり」
p.70 ヴォネガット
p.71 サミュエル・レイ・ディレーニイ
p.72
可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)

可能世界・人工知能・物語理論 (叢書 記号学的実践)

p.96
虚構世界の存在論

虚構世界の存在論

p.102
西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

p.197 カント的啓蒙と服従の論理に関連して
批判と危機―市民的世界の病因論 (フィロソフィア双書)

批判と危機―市民的世界の病因論 (フィロソフィア双書)

p.210
更新期の文学

更新期の文学

p.214「大塚の悪名高い「まんが・アニメ的リアリズム」なる言葉が」
p.215
芸術立国論 (集英社新書)

芸術立国論 (集英社新書)

p.220「それに対して、大塚は近代主義者、それも一見ベタで素朴なようでいて、じつはかなりたちの悪い、ブルジュワ的モダンと美的モダンの両方の顔を持った、二枚腰、三枚腰の近代主義者に見えます。例えば彼が「公共の文学」について語るときのやりかたは、自ら「これが希望の文学だ」と端的に指し示すのではなく、「仮に文学に希望があるとすれば、このようなものであるとしか考えられないが、果たしてそんなものが実現しうるのか」というネガティブな回りくどい未知をとります。そして実作者としての自分は、あくまでも文学者としてではなく、消費されるべきエンターテイナーとして振る舞います。これはまさしく東の言う「否定神学」のやり口ではないでしょうか」
p.221「先に見たデリダ・東と永井との対比と似通った違いが、東と大塚のあいだに成り立っているのではないでしょうか。永井にとって「汚名にまみれた人々」は認識不可能で、それゆえ彼らについて描写し記述することも不可能ですが、それについて思考することはまったく可能であり、そうした人々が存在していたことについては疑いを入れません。「汚名にまみれた人々」は永井にとっては「幽霊」ではないのです。それと同時に、「アトムの命題」を戦後まんが史に見いだした大塚にとっては、「語りえぬもの」、例えば手塚の戦争体験や、それこそ東が見いだしたソルジェニーツィンの「確率」経験は、その核心について認識することはできず、したがってそれ自体を描写することはできないが、しかしそれについて考えることはでき、それが存在していたことはまったく疑いの余地がないのです」