民衆・国民・東亜民族・大衆・市民 ——。映画館でシネマを観る「数」であるにとどまらず、映画や社会と多様な関係をとりむすぶ人々のあり様を、大正期から現在まで、社会主体をめぐる言説に注目することで、変容する政治やメディア環境との交渉のうちに浮かび上がらせた、映画観客100年史。
序 章
映画観客へのアプローチ
偶発性からの社会主体と歴史第Ⅰ部 民 衆
第1章 社会主体のはじまり
—— 民衆娯楽・社会教育による「民衆」と映画観客
社会問題としての「民衆」—— 階級、自発性、ジェンダー
「社会」主体としての「民衆」
民衆娯楽としての映画と「民衆」
社会教育としての映画と「民衆」
「社会」主体としての「民衆」映画観客第Ⅱ部 国 民
第2章 総力戦とトランスメディア的消費文化
——「国民」の再定義と矛盾をめぐって
「国民」の再定義 ——「民衆」の更新
トランスメディア的消費文化と「大衆」
消費主体の経験
消費主体の「国民」化 ——(反)資本主義、階級、ジェンダー
総力戦体制とメディア環境第3章 「国民」への動員
—— 映画観客と総力戦、そして戦後
映画独自の力
映画統制と消費文化
「新しい観客」
矛盾と葛藤の否認 —— 消費文化、地域、ジェンダーをめぐって
「国民映画」と「文化映画」
戦後、そして現代へ第Ⅲ部 東亜民族
第4章 「東亜民族」の創造/想像
—— 帝国日本のファンタジーと映画による動員
帝国と「東亜民族」
帝国と映画政策
同一性のファンタジー
ひそやかな中心性
身体的感覚への訴え、または「精神」と科学
動員システムと映画
帝国と資本主義
資本主義の外部
ポスト帝国 —— 忘却とファンタジー第Ⅳ部 大 衆
第5章 テレビと原子力の時代への「大衆」ポリティクス
—— 大衆社会論、大衆文化論、マス・コミュニケーション論
「大衆」ポリティクスのはじまり —— 戦前戦中日本の言説形成
システムに内在化された「大衆」—— 大衆社会論
システムの閾にある「大衆」—— 大衆文化論
「大衆」の(脱)政治化 —— マス・コミュニケーション論第6章 民主としての「大衆」
—— テレビによるトランスメディア的消費文化の再編と映画観客
消費生活的な民主 —— テレビ論
トランスメディア的消費文化の再編
近代政治的な民主 —— 映画観客の再定義
「大衆」は消滅したのか第Ⅴ部 市 民
第7章 脆弱な主体としての「市民」
—— 戦後とリスクの時代の個人化とネットワーク化
「市民」の歴史的編成
リスクの時代 —— フレキシブルでプレカリアスかつ自己規律的な自己責任の主体
権力ネットワークと領土化志向の「市民」ネットワーク第8章 「市民」の多孔的親密-公共圏
—— 自主上映会とソーシャル・メディアのトランスメディア的社会運動
親密圏のネットワーク ——「市民」の再編成
社会運動の更新とソーシャル・メディア
「市民」による自主上映会終 章