藤木秀朗著『映画観客とは何者か-メディアと社会全体の近現代史』(2019)

 

映画観客とは何者か―メディアと社会主体の近現代史―

映画観客とは何者か―メディアと社会主体の近現代史―

 

民衆・国民・東亜民族・大衆・市民 ——。映画館でシネマを観る「数」であるにとどまらず、映画や社会と多様な関係をとりむすぶ人々のあり様を、大正期から現在まで、社会主体をめぐる言説に注目することで、変容する政治やメディア環境との交渉のうちに浮かび上がらせた、映画観客100年史。

序 章
     映画観客へのアプローチ
     偶発性からの社会主体と歴史

第Ⅰ部 民 衆

 第1章 社会主体のはじまり
      —— 民衆娯楽・社会教育による「民衆」と映画観客
     社会問題としての「民衆」—— 階級、自発性、ジェンダー
    「社会」主体としての「民衆」
     民衆娯楽としての映画と「民衆」
     社会教育としての映画と「民衆」
    「社会」主体としての「民衆」映画観客

第Ⅱ部 国 民

 第2章 総力戦とトランスメディア的消費文化
      ——「国民」の再定義と矛盾をめぐって
    「国民」の再定義 ——「民衆」の更新
     トランスメディア的消費文化と「大衆」
     消費主体の経験
     消費主体の「国民」化 ——(反)資本主義、階級、ジェンダー
     総力戦体制とメディア環境

 第3章 「国民」への動員
      —— 映画観客と総力戦、そして戦後
     映画独自の力
     映画統制と消費文化
    「新しい観客」
     矛盾と葛藤の否認 —— 消費文化、地域、ジェンダーをめぐって
    「国民映画」と「文化映画」
     戦後、そして現代へ

第Ⅲ部 東亜民族

 第4章 「東亜民族」の創造/想像
      —— 帝国日本のファンタジーと映画による動員
     帝国と「東亜民族」
     帝国と映画政策
     同一性のファンタジー
     ひそやかな中心性
     身体的感覚への訴え、または「精神」と科学
     動員システムと映画
     帝国と資本主義
     資本主義の外部
     ポスト帝国 —— 忘却とファンタジー

第Ⅳ部 大 衆

 第5章 テレビと原子力の時代への「大衆」ポリティクス
      —— 大衆社会論、大衆文化論、マス・コミュニケーション論
    「大衆」ポリティクスのはじまり —— 戦前戦中日本の言説形成
     システムに内在化された「大衆」—— 大衆社会
     システムの閾にある「大衆」—— 大衆文化論
    「大衆」の(脱)政治化 —— マス・コミュニケーション論

 第6章 民主としての「大衆」
      —— テレビによるトランスメディア的消費文化の再編と映画観客
     消費生活的な民主 —— テレビ論
     トランスメディア的消費文化の再編
     近代政治的な民主 —— 映画観客の再定義
    「大衆」は消滅したのか

第Ⅴ部 市 民

 第7章 脆弱な主体としての「市民」
      —— 戦後とリスクの時代の個人化とネットワーク化
    「市民」の歴史的編成
     リスクの時代 —— フレキシブルでプレカリアスかつ自己規律的な自己責任の主体
     権力ネットワークと領土化志向の「市民」ネットワーク

 第8章 「市民」の多孔的親密-公共圏
      —— 自主上映会とソーシャル・メディアのトランスメディア的社会運動
     親密圏のネットワーク ——「市民」の再編成
     社会運動の更新とソーシャル・メディア
    「市民」による自主上映

終 章