ジークフリート・クラカウアー著『カリガリからヒトラーへ -ドイツ映画1918-1933における集団心理の構造分析』(1947=1970, 2008)メモ

カリガリからヒトラーへ―ドイツ映画1918‐1933における集団心理の構造分析

カリガリからヒトラーへ―ドイツ映画1918‐1933における集団心理の構造分析

ワイマール共和国が生んだ『カリガリ博士』は、映画芸術の画期的な作品である。同時にそれは、権力のもつ狂気を描き、ナチの不吉な前兆を漂わせていた点に時代のシンボリックな意味をになっている。文芸批評家ウィリイ・ハースがいうように、「そこには、あの薄気味の悪い、残酷な、野蛮なドイツがあった。」
ドイツの卓越した映画作家たち――エルンスト・ルビッチュ、フリッツ・ラングカール・マイヤー、G.W.パプスト――の数々の作品は、まさしくその時代のドキュメントであり、映画愛好家のみならず、社会学社会心理学、現代史を研究する人々に興味ある素材を提供するであろう。
著者は、映画は他の芸術媒体よりもより直接的な方法で、その国民の集合的な精神を反映するという考えのもとに、ドイツ映画をとおして、ヒトラーを出現させるに至ったドイツ人の秘められた内面的パターンを明らかにする。本書は前ファシズム的徴候へのきめ細かな分析による、文化史的アプローチの傑作といえよう。

目次
第1章 擬古的な時代(1895‐1918)
第2章 第一次大戦後の時代(1918‐1924)
第3章 安定した時期(1924‐1929)
第4章 ヒトラー直前期(1930‐1933)
補遺 プロパガンダとナチの戦争映画

24「この苦境に追い込まれた状況は戦争によって持ち越されたが、戦争は突如としてドイツの映画産業を外国映画との競争という重荷から解放してやった」「正規の映画館に加えて、戦線の背後に広がりつつある数多くの軍用映画館が、新作映画のたえまない供給を要求してた」「ブームがはじまり、新しい映画会社は信じられない速度で続々と設立された。一応信頼できる調査によれば、これらの映画会社の数は、1913年の28社から1919年の245社に増加した」
27 カール・フレールヒ監督、エミール・ヤニングス那智の映画産業の中で重要な地位を占めることを気にしなかった」
37「ルーデンドルフ将軍地震、率先して主要な映画会社の合併を勧告し、それによって、分散しているエネルギーが国家的利害関係に一本化されるようにした。彼の諸勧告は命令であった。卓越した財政家、実業家、船舶所有者らと緊密な接触を保ったドイツ最高司令部が1917年11月に採用した決議の威力のもとに、メスター・フィルム、ダヴィドソンのユニオン社、ノルディスク社ー銀行集団の援助をうけていたー傘下の映画会社は、合併して新しい映画会社ウーファ(ウニヴェルズム・フィルム・アクチエンゲゼルシャフト)となった。その資本金は役2500万マルクに達したが、その3分の1に当たる約800万マルクを政府が引き受けていた。ウーファの公式の使命は、政府の決定にしたがってドイツを宣伝することであった。それらの決定は、たんに直接的な映画プロパガンダのみならず、ドイツ文化の特徴を示す映画や国民教育という目的に役立つ映画をも要求した」
44 リヒャルト・オスワルト、性病撲滅運動に便乗してエロ映画撮影
75「ドイツ映画の監督は、少なくとも1924年まで、セットの効果に夢中になっていたので、スタジオ内に自然風景全体を構築させていた。彼らは、外の世界の偶然性に依存するよりも、人工的な世界を支配する方を好んだのである。彼らがスタジオに引きこもったことは、自己の殻の中への一般的な閉じこもりの一部分をなしていた。ドイツ人たちは、一旦魂の中に隠れ場所を探し求める決心をすれば、彼らが放棄した現実そのものを探求することをスクリーンに許すわけにはいかなかったのだ」
80 ヴァニーナ
82 フリッツ・ラング監督『ドクトル・マブゼ』(1922)
87 エルンスト・ルビッチ監督『寵姫ズムルン』
90 フリッツ・ラング監督『死滅の谷』
94 フリッツ・ラング監督『ニーベルンゲン』(1924)
98 カール・マイヤー
121 カール・グルーネ監督『蠱惑の街』(1923)「独裁主義的な言動を暗示する他の代表的作品」
126 〈ルビッチュ・タッチ〉!
128 E.A.デュポン監督『ヴァリエテ』(1927)
137「1925年にウーファ社は非常に嘆かわしい窮境にあったので、パラマウントとロウ社(メトロ・ゴールドウィン)の介入なしでは済まされなかった。これらのハリウッドの二大映画会社は、いわゆる《パルファメト協定》に署名するようウーファ社に勧告した。この協定は、相当額の借款の見返りとして、ウーファ社は、数多くの映画館をアメリカの債権者の使用に供すると同時にそのクォータ証明書を提供することを規定していた。これらの規定は、ウーファ社が、入手しうた数百万ドルの金で、その新しい義務を遂行しなければならないだけでなく、ドイツ銀行への古い負債をも清算しなければならなかっただけに、損害の大きいものであることが判明した。1927年には、外部からの圧力と内部の経営の不手際の結果、ウーファ社は再び破産に瀕した。この時、フーゲンベルクがその救済に乗りだしてきたープロイセンの保守反動主義者であるフーレンベルクは、彼が掌握している新聞をとおして広範囲な世論を統制していた。彼はドイツの主要映画会社を併合することによってその影響力を伸ばそうとした。パルファメト協定がその後改訂された後で、ウーファ社はフーゲンベルクの手中でプロパガンダの道具にみずからなりさがってしまった」
138 20年代ドイツ映画の衰退について「提出された一つの説明は、20年代の中ごろドイツ映画の卓越した作家たちや技術者たちが数多く海外へ流出したことである」ハリウッドに「ルビッチェ、ポーラ・ネグリ、ハンス・クレリ、ブコウェツキらがいた。1925年と1926年には、E.A.デュポン、ルドヴィヒ・ベルガー、ルプ・ピック、パウル・レニムルナウといった一流監督にファイトやヤニングスといった俳優からなる大群が彼らと合流した。エリヒ・ポマーもこの誘惑に抵抗することはできなかった」
151 ムルナウ監督『最後の人』『タルチョフ』
172 オーストリア人G.W.パプスト
198「1928年に、「一方では反動的な駄作と戦い、他方では進歩的な映画を芸術的に発展させる」ために、映画芸術民衆連合が設立された。ソヴィエト映画の秀作がすさまじい成功を収めたことによって、真の映画芸術は左派的な正確を帯びるべきであることが当然であると思われるようになった」「社会批判をふんだんに盛り込んだ優れた映画を彼らに楽しませる運動を開始した」

215 アレクシス・グラノフスキー監督『人生謳歌』(1930)
232 レオンティーネ・サガン監督『制服の処女』(1931)「これらの映画は独裁主義的行動を批判することにまったく率直であった」
239 ルイス・マイルストン監督『西部戦線異状なし』(1930)
243 ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督『三文オペラ』(1931)
278「ヒトラーが彼自身の政府が成立した初っ端に『朝やけ』を見たことは奇妙な偶然の一致である」「ヒトラーが首相に指名された一日後の1933年3月2日に、ウーファ社は、第一次大戦中の潜水艦を主題にした映画『朝やけ』を封切った」