映像メディアに多少なりとも関心をもつ人びとにとって、いまやレンタルビデオショップは、劇場と並んで欠かすことのできない文化施設となった。レンタルビデオショップは、ファミリーやカップルが充実した余暇を過ごすための話題の新作ソフトを提供しているだけではなく、市民が過去の名作に安価でアクセスできるアーカイブであり、ふと目に入った気になる一本を手に取る機会を与える偶発性のバザールであり、映像文化の社会的意義を啓蒙する教育機関ですらある。
事実、活字文化への貢献と同等の役割を、図書館が映像文化に対して担っているとはまるで言えまい。一部を除いて、ソフトの品揃えも、AV装置も極めて貧弱であり、私たち市民は映像文化的には途上国か、そうでなければ古代ギリシャのポリスのような奴隷状態におかれていると言っても差支えはない環境におかれているのが実情だろう。こうした状況において、レンタルビデオ店に求められる役割はますます大きくなっているのではないか。
TSUTAYAの事業会社であるカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が、市の委託事業により佐賀県武雄市の図書館の運営をはじめたことも、現代社会における企業の公共性を再考する好例となるだろう。すなわち、かつては民営/公営と公共領域の運営のアクターは厳格に分割されてきたが、現在ではこうした区分は、手続き的にも、実態的にも無効化した。本件が指定管理者制度に基づき、公の手続きを経たという事実など関係なく、企業の公共性はますます問われるようになっている。
あるいは、法実務でいう付合契約の概念を連想してもよいだろう。電気・ガス・水道などのライフラインや、運送、保険などでは、契約内容はサービス提供側によって一方的に決定されており、契約を結ぶ当事者は内容を決定する自由をもたない。これが付合契約である。電力会社が各地域にて事業を独占している日本においては、現状の電力供給手段に対して抗議の意思があったとしても、日々の生活や企業活動を維持するためには契約の自由は存在しない。サービスが国家や一部の企業によって独占・寡占的に供給される領域にて、付合契約問題は発生する。現在、全国レンタルビデオショップ3600店のうち、TSUTAYAは1400店、GEOは1200店と、大手2社で3分の2を占めている。およそほとんどの人びとにとって、ビデオレンタルするためには、これら企業の提供するサービスを選択するしかないのが現実である。
しかし、映像文化の担い手として中核的役割が求められているはずのTSUTAYAで、ここ数日気になる変化を観察した。そもそも営利目的であり、大多数の店舗がフランチャイズ契約で担われているTSUTAYAにおいて、顧客は映画に対する知識がまるでない社員やアルバイトスタッフによって並べられた作品を、まるでレストランのメニューのように選ぶしかない状況が、顧客の奴隷化でも呼ぶべき状況だろうが、それでもいくつかの店舗では、顧客によるリクエストコーナーを設け、届けられた声をソフト購入の参考にしていた。ところが、このリクエスト・コーナーが、最近軒並み撤去、もしくは方針を大きく変えたのである。
たとえば、TSUTAYA札幌駅西口店は、かつてリクエスト・コーナーを設置し、購入の是非を丁寧にリスト化して店内に掲示していたが、最近これを取りやめ、宅配サービスであるTSUTAYAディスカスからの取り寄せに切り替えた。TSUTAYA札幌大通店でも、CDは従来通りリクエストあった作品の店舗単位の購入を実施しているが、DVD、Blu-rayに関してはどういうわけか、TSUTAYAディスカスからの取り寄せに変更したようだ。おそらく、時期から考慮しても、映像メディアに関しては、店舗ごとの購入をやめ、ディスカスとの連携を図るというCCCの方針転換があったのではないか。ちなみに、TSUTAYAディスカスは埼玉県川越市の倉庫から全国に宅配DVDが配送されている。今回の方針転換は、ソフトの移動・売買に関する店舗の裁量を狭め、本部の統制を強める狙いがあるのではないか。
店舗単位の購入でなくても、ディスカスから取り寄せてくれるのならば問題はないだろうといえば、まったくそんなことはない。今回の方針転換によって、店舗にもディスカスにも在庫のないソフトを見るための手段が、根こそぎ奪い去られた事実を無視するべきではないのだ。確かに、店舗とディスカスを連携すれば、顧客は流通するかなりの部分の映像にアクセスできるだろう。しかし、それは現存するソフトの数に比べればまったくと言っていいほど、絶望的に不十分なのである。リクエストの廃止と、店舗とディスカスの連携という方針転換は、顧客の声をソフト選別のプロセスから周到に排除しているだけではなく、在庫のラインナップに関しては、顧客は自分たちが取り揃えたソフトから見るべき作品を選ぶべきであり、それが現代日本におけるあるべき消費者の態度であるとでも言わんばかりの、傲慢で、無知無頓着で、映像文化を死に追いやる官僚的な思考に根ざしているという点で徹底的に批判されるべき事態なのである。
こうした絶望的状況に私たちが貶められているのは、取りも直さず映画に対する考古学とでも言うべきセンスが、サービス提供者にも、顧客にも、すべての映像文化に関わる人にも、まったく欠如していることに起因しているのは疑いない。DVDやBlu-rayでソフト化され、100円かそこらで手軽にレンタルできるということが、見たい映像にいつでもアクセスできることとはまったく異なるという当然の事実が、切迫感あるものとして共有されていないのだ。黒澤明と並び国際的評価を得ている小津安二郎の戦前作品はその半分近くのフィルムが、溝口健二作品に至っては8割のフィルムが失われていて、現在見ることができない状況を挙げるまでもなく、VHS、LD、DVD、Blu-rayといったソフト化の波に乗ることができず、海底に飲み込まれた無数の映画がある事実を忘れるべきではない。映画を見るということ、フィルムに焼き付けられた過去の映像を欲望するという行為は、これら失われたフィルムを追い求める考古学的探検であることを忘れるべきではないのだ。
もちろん、今も世界の何処かの図書館や博物館のカビ臭い倉庫に眠る失われたフィルムの捜索も続けられるべきだろう。しかし、映画の考古学者であるということは、何もそんな研究者や司書並みの要求を、すべての消費者に押し付けるということを意味するわけではない。そうではなく、私たちが今、見たいと思う映画を本当に見ることができるのか。この当然の疑問を常にもつことが何より大切なのだ。たとえば、近所のTSUTAYAやディスカスにも在庫がない作品のDVDが、生産終了につきAmazonのマーケットプレイスで高値で取引きされているケースによく出会う。こうした作品が、手軽に安価で多くの顧客が見ることができる環境をいかに構築することができるか、各アクターが能動的に考え、行動することが求められている。
小津安二郎監督『美人哀愁』のネガとプリントは失われており、現在は脚本によってのみ、その内容を知ることができる。溝口健二監督『狂恋の女師匠』は、パリのシネマテークに保存されているという噂があるが、詳細は不明であり、見ることはできない。アッバス・キアロスタミ監督『風が吹くまま』は、DVDがリリースされているが、希少なため中古品が高値で取引されており、TSUTAYAでDVDレンタルはされていない。イングマール・ベルイマン監督『沈黙』、今村昌平監督『赤い殺意』も同様だ。ラウール・ウォルシュの『いちごブロンド』は国内ではVHSのみであり、DVD化はされていない。同監督の『栄光』は国内ではVHS化すらされておらず、映画祭などの特別なイベントでの公開を待つしかない。ハワード・ホークス監督『港々に女あり』も同様である。ジャン・ルノワール監督『十字路の夜』も国内で"まともな方法"でのアクセスはほぼ不可能である。権利関係で訴訟になり、VHSは絶版、DVD化未定となっていた黒沢清監督『スウィートホーム』が、YouTubeで簡単に視聴できるのは、係争沙汰で管理者が曖昧になるとかえって非合法な手段によるアクセスが容易になるという皮肉を象徴しているかのようだ。
こうした映像的不自由に映画好きは怒りを覚えなければならない。見ることができる作品がいかに限定された牢獄のような環境に自分たちが囚われていることか。知識も知性も欠如したレンタルビデオショップの官僚的ラインナップの前に、顧客の映像的欲望がどれほどないがしろにされていることか。映像の考古学的センスを研ぎ澄ましながら、自分たちが置かれている文化的不毛地帯の惨状を捉え直すべきではないだろうか。