自己決定はすべてか

 11月5日の北海道新聞朝刊に論説委員の斉藤佳典による「自己決定はすべてか」というコラムが掲載された。同稿では、事前検査によって母親の胎内の赤ちゃんに先天的障害があると判明した場合、中絶は容認されるべきかなどの生命倫理に関わる自己決定問題を論じている。斉藤が具体例として挙げるのが、04年シアトルで起きたアシュリー事件である。

 事件の概要は次の通り。ワシントン州出身の少女アシュリー(9)は、生後3か月程度の精神年齢で止まってしまう脳障害「非進行性脳症」(static encephalopathy)を持って生まれた。両親は娘の状態を改善する治療法を模索してきたが、シアトル子供病院(Seattle Children's Hospital)の医師らと相談した結果、両親は娘の子宮や乳房を切除するなど広範囲にわたる手術に合意したという。アシュリーはまた体の成長を止める骨プレートを早く骨に定着させるために、大量のエストロゲン(女性ホルモン)を投与された。これらの処置を決断した理由として両親は、「体が小さいままの方が、本人の負担にならない」「妊娠する機会はないのだから不必要な臓器は取るべきだ」と、子の健康や将来を案じての判断であると主張したが、親は子の生をどこまで決定可能かという妥当性をめぐって論争に発展した(一部参考)。

 アシュリー事件について記事では以下の観点から論を進める。第一に、自己決定はどこまで認められるかという問題である。もちろん本件にてアシュリーは自分の意志を表明できる能力がないので、自分の身体の扱いについてアシュリー自身が決定することはできない。しかしそれでも、両親が娘の体の運命にどこまで決定権を有するかという問題は依然として残る。

 第二に、不確実性の問題。斉藤は「出生前診断遺伝子治療、臓器移植、延命措置…。医療技術の発達で誕生前から死ぬ間際まで、命に関する様々な選択が個人に委ねられるようになってきた」と述べ、生命科学、医療技術の発展によって、否応なしに本人や周囲の人々よって、生命に関わる決定を下さなければならない機会が増えてきたことを強調する。さらに、「やっかいなのは不確実性の問題だ。例えば遺伝子診断だけで将来がすべて決まるわけではない」として、自己決定の正当性を判断するための基準を、生得的条件と社会的条件に分類し、両者が混在するケースが往々にして存在すると述べる。

 本稿の整理が粗雑である理由は、第一の論点と第二の論点を並列させて扱っているためである。第一の論点は、「両親は娘の運命をどこまで決定できるのか」、より一般化すれば、「XはYの運命を決定できるか」という自己決定の〈人称性問題〉として定式化できる。「X=私」「Y=私」ならば、「私は私の運命を決定できるか」となり、安楽死など死の自己決定問題がこのパターンに分類できる。または「X=他者」「Y=私」ならば、「他者は私の運命を決定できるか」となり、アシュリー事件が該当する。

 一方、第二の論点は、決定を正当化できる条件に関わる問題である。対象行為や環境に至った理由は、先天的障害などの生得的条件によるものか、家庭環境などの社会的条件によるものか、決定が正当化されるための根拠としてどこまで適用可能かが議論される。これを人称性とは独立した次元に属する〈決定正当化根拠問題〉として整理しよう。後に述べるように〈決定正当化根拠問題〉は〈責任問題〉でもある。

 異なる次元の位置する二つの観点をクロスさせると、アシュリー事件やダウン症の子どもの中絶など、出産前後の判断は、(1)「他者による」(2)「生得的条件」に関わる決定問題として整理できる。が、ただちに新たな問題にぶつかる。決定対象が成長すると正当化根拠が生得的条件か環境条件か、一義的に決定することはできないためだ。決定対象となる事象は常に生得的条件と社会的条件の複合によって生起するのが常である。(1)「他者による」運命の決定が高度にシステム化された司法判断を想起すればよい。たとえば、なんらかの障害をもった人が自動車を運転して交通事故を起こした場合、それは先天的障害(生得的条件)に起因するか、それとも運転技術の未熟(社会的条件)に起因するのかを即座に確定させることはできないだろう。交通事故という帰結に至った原因が、生得的条件か社会的条件か判断できないということは、行為者の責任の程度を確定できないという問題にもつながる。心神喪失者の限定責任に関する刑法39条問題もまた、行為の帰責を条件によって確定できないために生じた問題である。

 生命科学の発展は、出産前の胎児の障害のような生得的条件はもちろんのこと、心神喪失者が「本当に心神喪失であるか」(あくまで仮定だが)遺伝レベルで決定できるかもしれない。しかし、仮に「先天的心神喪失者」を確定できる環境が整ったならば、それは行為を意志する自律した個人の概念の否定を意味する。ならば、ある行為(とりわけ犯罪行為)の責任を加害者に帰属することもできないだろう。ここにはパラドクスが生じている。ある行為を帰責するために、科学的手法を用いて生得的条件/社会的条件の判別を試みようとしたにも関わらず、生得的条件が全域化し心神喪失が半ば重罰を免れるための隠れ蓑になっている現況にその傾向はすでに現れている。今後、生命科学がさらなる発展を遂げ、それが司法、医療の現場、その他あらゆる責任確定に与える影響が気になるところだ。