松本克己『世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平』

世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平

 日本語はどこから来たのか。日本文化の発祥や民族の起源はどこに遡るのか。日本の始原をめぐるこの問は、歴史学言語学はもちろんのこと、あらゆる人文科学、社会科学にとって避けては通れない問題である。俎上に載せられて百年近く、数多くの仮説が提示され検証が行われてきたにもかかわらず、一向に解決に達していないこの問題に対して、本書は極めて大胆な仮説を投げかける。

 言語や文化の起源を求めることは、場合によっては特定文化の「国籍」を求めることと同一視されやすい。たとえば「天皇家の先祖は朝鮮人であるか」などが好例だろう。しかし、文化の国籍特定するという行為が、ある事象を国民国家の枠組みに帰属させることだと解釈されているとすれば、これは典型的な遠近法的倒錯である。構成主義的な国民国家論ではいまや明らかだが、私たちがある文化の起源(=文化の総体がそこから発生したと帰属できるような消失点)は、たかだか200年程度の歴史の国民国家によって創出された「共同幻想」にすぎない。言語系統論の射程は、このようなnatinalityの幻想に回収されるものではない。

 筆者にとって日本語の起源を求めることは、ユーラシア大陸の数千年の言語史を明らかにするどころか、空間的にはアフリカから、南北アメリカまで拡がり、時間的には、長く見ればホモ・サピエンスが誕生した15万年前まで、本書で中心的に扱われている範囲ならば3万年前にまで拡がるものである。

 日本語の系統論といえば、素人の私でも、その起源を南インドのドラヴィダ語族タミル語に求める、大野晋の日本語・タミル語同型説、あるいはヨーロッパのバルト海域から中央アジアを経てシベリア東部まで広がるウラル・アルタイ語に求める説を聞いたことがある。しかし著者によれば、これらの学説は間違いらしい。詳細は割愛するが、日本語・タミル語同型説は、言語の特性以前に、二つの言語に類似性を発見する大野の分析手法そのものの欠陥が指摘され、ウラル・アルタイ語説は、語頭子音群や母音調和などの共通する特長が、周辺言語にも広く確認できるという理由で論証の短絡が指摘される。現在でも有力な学説となっているこれら仮説に対する筆者の反論は、極めて説得力のあるものだ。

 これに変わって著者は、「環太平洋言語圏」という日本語系統論の新たなモデルを提案する。まず、流音のタイプ(「r音」と「l音」の区別の有無による複式流音型、単式流音型の分類)、形容詞タイプ(形容詞が名詞の下位カテゴリーであるか否かという、形容詞体言型と形容詞用言型の分類)、名詞の数のカテゴリー(名詞の複数標示が、「books」などのように文法的に義務化されているか、「男たち」のように義務が存在しないか)など複数の特徴からユーラシアの諸言語をふたつに分類する。西側のセム、インド・ヨーロッパ、ウラル、モンゴルなどの語族をまとめて「ユーラシア内陸言語圏」、そして、東側のギリヤーク語、アイヌ語、日本語、朝鮮語、漢語系諸方言、チベットビルマ語などのグループを「太平洋沿岸言語圏」と区別する。先の類型基準に照らせば、ユーラシア内陸言語圏は、複式流音型、形容詞体言型、文法的に義務付けられた名詞の数カテゴリーなどの性質を、一方の太平洋沿岸言語圏では、単式流音型、形容詞用言型、名詞における数カテゴリーの欠如などの性質を有する。

 しかし、このような言語類型は、驚いたことにユーラシア大陸では納まらない。すなわち、ユーラシア内陸言語圏に特徴的な文法や発音の性質は、サハラ以北のアフリカ大陸までその分布を拡げて共通し、一方、太平洋沿岸言語圏の性質は、なんとベーリング海峡を越えて遠くアメリカ大陸まで拡がっている。単式型流音や用言型形容詞などの特徴は、北米、南米の全域を覆い、数詞類別はアメリカ西部から中米を通過し、南米アンデスの東側まで分布している。つまり発音や文法上の様々な特徴から世界の言語を分類すると、日本語が属する太平洋沿岸言語圏は、ユーラシア内陸言語圏と親戚関係を結ぶどころか、その言語的性質はおよそかけ離れており、海を越えて環太平洋圏で共通の言語圏を形成していることになる。筆者は日本含むユーラシア東部太平洋側から、南北アメリカまで至るこの言語圏を、「環太平洋言語圏」と命名し、従来ユーラシア大陸にばかり注目されていた日本語系統論の視線を、「環日本海」から、その外延に拡がる「環太平洋」に転換させようと試みる。

 筆者の(実験的な)仮説によれば、最終氷期最寒気(LGM=Last Glacial Maximum)以前の2〜3万年前に日本列島に最初の人類が到達することで環太平洋言語圏が幕開け、温暖化によって氷河が溶ける前の1万7千年前に千島・アリューシャン列島経由の沿岸ルートでアメリカ大陸への移住が開始。1万5千年頃にはアンデス南部に到達した(最初の新大陸太平洋沿岸人の足跡としてモンテ・ベルデ遺跡がその証拠となる)。その後、大河流域に文明が形成され、環太平洋言語圏はそれぞれの語族に分化していった。日本語の起源・系統が、発祥と地球規模の拡散として新たな歴史ドラマが提示される論証過程は極めてスリリングだ。

 もちろん、この大胆な仮説にはさらなる検証が必要だろう。なにより、ユーラシア東部の環太平洋言語圏と西部の環太平洋言語圏で、あらゆる言語的特徴の断絶が存在するならば、それはいかにして生起したのかを明らかにしなければ、環太平洋に拡がる日本語の伝播過程はわかっても、起源について説明したことにはならない。今回は専門的議論は避けたが、筆者が日本語や朝鮮語などの太平洋沿岸言語圏とアメリ先住民族の言語の関連を指摘する際に、人称代名詞の類似性が必要以上に強調され、他の特徴が十分に検証されていないのも気になる。しかしそれをもって本書の仮説を否定することもできないだろう。100年以上の蓄積があるにもかかわらず、一向に解決の糸口が見つけられないほど暗礁に乗り上げた言語系統論に、極めて斬新な視点を提示した本書が詳細に俎上に載せられることで、日本語の起源に関する議論が再燃することを期待したい。


日本語の起源 新版 (岩波新書)

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