食肉の帝王とメディア・タブー

 2005年1月23日放送された『サンデー・プロジェクト』のスタジオが異常な緊張感に包まれていたのを覚えている。その日の番組の内容は、牛肉の産地偽装事件に関するものだった。食肉会社のハンナンが、2003年にアメリカ国内でBSEに感染したカナダ産牛が発見されたのを契機とする米国産牛肉輸入禁止に伴い、政府によって市場流通差し止め通達を受けた海外産牛肉を国産牛であると偽り、政府補助金50億円を詐取した事件についてである。番組では、司会の田原総一朗に加え、ジャーナリストの大谷昭宏内田誠による取材に基づき、食肉卸売業者ハンナンの元会長、浅田満に関するVTR「『食肉のドン』の犯罪―政官業利権構造」を放送した。

 私は当時、政治家ほか著名人を呼んで、毎週のように喧々諤々の議論を繰り広げる怖いもの知らずの番組が、なぜこの程度の時事問題で張り詰めた空気に包まれているのかまるで理解できなかった。この頃の私はまるで知らなかったのだ。浅田満が被差別部落出身であり、食肉産業と同和利権についてメディアで扱うことが、タブーとされていることを。

 浅田がどのような人生を歩み、いかにして有力政治家や財界人、芸能人、暴力団とオモテ/ウラに関わらず人脈を広げ、各界に絶大な影響力を及ぼすに至ったのか、その経緯は溝口敦著『食肉の帝王 同和と暴力で巨富を掴んだ男』を読んでほしい。ハンナングループは、北海道から九州まで全国に食肉ネットを張り巡らせ、食肉にとどまらず金融や建設業にも進出し、中部国際空港の工事も手がけた巨大企業郡である。中川一郎鈴木宗男ら有力な政治家にふんだんにカネを与え、鈴木に至っては実質、舍弟として政界へのパイプ役に利用していた。ちなみに鈴木所有のセルシオは、ハンナン名義であり、彼の政治団体「大阪食品流通研究会」の大阪連絡所は、やはり浅田が社長を務める羽曳野市の南大阪食肉畜産荷受の中に置かれているほど密接な関係を保っていた。さらに、当時官房副長官であった鈴木は、その立場を利用し、天皇・皇后の主催する園遊会に浅田を招待(ただし浅田は出席を辞退)した。大阪知事を務めた横山ノック太田房江を自邸に呼びつけ密議を主催、大相撲の部屋経営のための資金を捻出するなど、野球、ゴルフ、芸能界にも広く人脈を持っていることを挙げただけでも、彼のカネと権力を予想することができるだろう。

 もちろん、浅田と政界の関係は重要だし、政界との癒着関係、なにより牛肉偽装事件については詳細に問われるべきだろう。しかし浅田の出自やカネと権力の実態を、ここで改めて振り返るつもりはない。今回は、私が7年前に『サンデー・プロジェクト』に感じ取ったあの緊張感の正体について考えたい。それは被差別部落問題がタブー視されるに至る放送業界の実態でもなければ、天皇、宗教、ヤクザなどを報道しないメディアの弊害でもない。被差別部落問題に象徴される差別の正体についていかに考えるべきか、その端緒を確認したいまでだ。

 ところで被差別部落問題について考察することは、あらゆる差別について学問的にいかにして望むべきか、その視座を考察することと同義である。社会学においては、今や旧来的整理だが、差別は特殊な社会構造に由来するのか、社会構造一般に由来するのかという二分法が存在した。宮崎学が『近代の奈落』にて詳細に調査した全国水平社でも、かつて階級社会だから差別が生産されるとするボル派と、差別には階級社会に還元できない普遍的要素が存在するとするアナ派が対立した歴史がある。被差別民を一般労働者として解釈し、部落解放を労働者解放に還元するボル派は、差別問題を「士農工商穢多非人」という貴賎問題として把握する。しかし『近代の奈落』解説にて宮台真司は、貴賎カテゴリーで意味処理するボル派的見解は、被差別部落問題の聖穢カテゴリー要素を排除していると批判し、困難を見据えた上で自力再生にこだわるアナ派を擁護する。聖穢カテゴリー要素とは、四足動物を殺すから祟りが起こるなど、差別問題を「穢れ」の問題として評価する見方である。このような観念は、他国には奴隷制度、農奴制度には存在しない。被差別部落問題の貴賤カテゴリー的解釈が受け入れられないのは、穢多の頭領が、下級武士や代官、庄屋にまで金銭を貸すほど裕福であったことに加えて、穢多が斃牛馬処理に関する権益を特権的に独占するなど、経済的特権や芸能の支配権を取引することで、持ちつ持たれつの関係を維持していたためである。しかし、明治維新以降、このような特権は剥奪され、被差別部落は経済的に弱体化する。皮革産業は、軍需物資の中核を占めるようになり、殖産興業的な大量生産システムに組み込まれたためである。食肉産業への特権も同様の経緯をたどった。

 1932年に浅田満が生まれた大阪府羽曳野市被差別部落は、そのような大量生産システムによって利権を喪失した地域である。

終戦一年目から三年目あたりにかけては、村をあげての活気と混乱が錯綜していました。(略)牛一頭は皮一枚がほぼ原価に相当し、肉はそのまま利益となり、血は煮つめて薬品の原料に、骨を蒸して採ったヘットでも一斗缶の末端価格が一万円にもなりました。かつては肝臓くらいしか食用にされず、処理をするのに困ったこともあった内臓に、ホルモンというハイカラな名前がつき、上六や天王寺あたりで飛ぶように売れはじめたのでした。なお、東京にホルモン料理店ができたのは、(昭和)25年ことです」(向野地域産業と歴史研究会有志編『向野食肉産業百年史』)。

 食肉産業の大規模化によって、被差別部落の食肉権益が大打撃を受け消失しつつあった時代、父親より商店を引き継いだ浅田に転機が訪れる。日本ハムと共同で会社を起こす話が持ち上がったのだ。ここに至るまでの経緯はやや複雑である。当時の日本ハムは関係各界との合意により、ブタの屠畜は認められていたが、牛については認められていなかった。事業拡大したいが、牛肉業界の反発を買うことを恐れた日本ハムは、買参人としての資格を持ち、有能であると評判だった浅田に白羽の矢を立て、牛肉取り扱いのダミー会社を設立したというわけだ。この日本ミートの専務に就任した浅田は、その立場を足がかりにして、食肉企業ハンナンとして会社を急成長させる。浅田は、明治以降の近代化に伴って消失する食肉利権に片足を置きながら、もう片方の足を自らを駆逐した食肉産業に乗せ、業界最王手の日本ハムと提携することで、食肉界のドンに至る一歩を踏み出したのである。

 さて、冒頭に挙げたサンデー・プロジェクトの緊張感は、まさに被差別部落についてメディアで言及することがタブー視されているためであった。一般的差別問題であるならば、「同じ人間だから差別するな!」とメディアにて啓蒙することも無駄ではない。しかし、被差別者への言及そのものがタブーとされている状態では、問題について「言及する/しない」という判断自体に政治性がつきまとい、その選択ゲームに参与することによって差別が再生産される問題に直面する。実際に、サンデー・プロジェクトに放送後、テーマが浅田満とハンナングループの食肉偽装事件であるにもかかわらず、事件への言及を被差別部落問題へのタブーと関連させて発言した田原総一朗らに対して、後日、部落解放同盟などの関係団体より抗議が申し入れられたことも、その証左となろう。

 こうしたタブーが生じるに至る歴史的背景を遡れば、平安末期に広まった「穢れ」に関する土俗信仰的感受性が関係する。御供養や物忌みなど、人や動物、モノに対して「聖なるものと穢れたもの」を見い出す土俗的宗教性が日常を規定する聖穢カテゴリーは、「士農工商穢多非人」などの階級で物事を説明しようとする貴賤カテゴリーには回収されない秩序である。被差別部落問題のタブー化には、こうした聖穢カテゴリーが横たわっているためだろう。差別が貴賤カテゴリーの問題として説明できるならば、法的平等化と再分配政策によって、階級社会を解除すればよい。しかし既に述べたように、皮革産業、食肉産業の利権と結びついた被差別部落は必ずしも、階級社会の最底辺として苦汁をなめていたわけではない。被差別部落問題を差別問題として規定したのは、このような貴賤カテゴリーでは説明しきれない要素があるためだ。したがって、我々は被差別部落問題を貴賤カテゴリーと聖穢カテゴリーに分離し、前者には回収されない後者にこそタブー化の主因を見い出さなければならない

 消したくとも消えない聖穢の性質が胚胎する被差別部落問題に、私たちはどのように向き合うべきか。問題の解決はあり得るのか。安易に結論を出すべきではないだろう。貴賤カテゴリーと聖穢カテゴリーの重ね焼きは解除されるべきだ。被差別部落問題を階級問題として捉え、部落解放を労働者解放をと同一視するボル派の見解には、確かに共同体ベースの穢れの観点がまるで抜け落ちている。しかし共同体に拭い去ることができないほど穢れが固着しているという通念が社会的に共有されている事実こそ、被差別部落問題における差別の温床ではなかったのか。こう考えると、近代化に伴う地域共同体の崩壊とそれに伴う差別意識の消滅(「部落出身ですけど何か?」)は望ましい解決策に思える。しかし事態は簡単ではない。

 すなわち「聖穢カテゴリー」の残存が問題化されると同時に、これを解消すべく処方された政策が「被差別部落民の一般化」を招き、アイデンティティーを簒奪するという問題が発生する。これは極めて普遍的問題だ。農家を支援するための土木事業が儲かるため離農を招き、漁民を安全にする港湾整備事業が儲かるため離漁を招く。あまねく高速道路を張り巡らせ、道路沿いのドライブスルー、チェーン店という風景が全国至るところで見受けられるようになった結果、被差別の源泉であった地域の共同性も消滅した。救済を求める弱者に集権的再分配政策によって手を差し伸べた結果、地域独自の自律的相互扶助の伝統が消失する。再配分強化による自律的相互扶助の解体。

 しかし全国「本土並み」化によって聖穢カテゴリーを忘却させる被差別者の「一般人化」はベストな解決策だろうか?「知らないから差別しない」ことは差別問題の解決たりえるか?私はそうは思わない。差別そのものが解決されるべき問題であることは言うまでもない。しかし、集権的再分配政策や「臭いものには蓋」のような善良な平等意識は、地の底に覆い隠した聖穢のエートスが、予期せざるタイミングで噴出する現実を受け止められない。さらに深刻なのは、差別意識の忘却は、浅田満・ハンナングループによる政治との癒着構造、そして牛肉偽装事件の本質の隠蔽に加担してしまうという問題である。私たちが問題を忘却しようとも、見て見ぬふりを決め込んでも、数世紀由来の聖穢カテゴリーは現在でも明確に残存し、浅田のように政・官・財・暴を横断する聖域に隠れひそむフィクサーとして強大な政治的影響力を行使する者が現実に存在する。知らずに得られるまやかしの平等は、差別問題を温存する。差別の歴史と現実を受苦した上で、いかにして社会のなかで飼いならすか。私たちは自分に問わなければならない。



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近代の奈落 (幻冬舎アウトロー文庫)

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