西阪仰著『心と行為 -エスノメソドロジーの視点』(2001)メモ

心と行為―エスノメソドロジーの視点 (現代社会学選書)

心と行為―エスノメソドロジーの視点 (現代社会学選書)

見ることや想起することは、個人の閉ざされた内部で生じる出来事ではない。それは、人間同士の相互行為に埋め込まれた「社会的な」現象にほかならない。エスノメソドロジーと称される社会学的方法に方向づけられた相互行為分析により、視覚、想像、記憶にかかわる具体的な行為を分析し、心の社会的構成―心がいかに社会的に構成されるものであるのか―を明らかにする。社会学と心理学の接点で繰り広げられる新しい知の展開。

第1部 空間と視覚
 第1章 相互行為空間
 第2章 視覚と行為
第2部 想像と想起
 第3章 イメージと想像
 第4章 認識と想起
第3部 心理学の社会学
 第5章 心理学の社会学

p.86「このように、見ることによって本質的なのは、状況であり、あるいはそこでどのような行為が行われているかである。そして、これは、「見る」という概念の論理文法にかかわることがらである。私たちが「AはXを見た」と言うとき、けっして単にAに一定の生理的過程を帰属するわけではない。私たちは、Aに、その時々の状況にふさわしい態度・能力・動機を帰属するのだ。「Aが蜃気楼を見た」と言うとき、私たちは、Aに、Aが水のないところに水筒をもって駆け出したことの動機を帰属したり、あるいは(逆に)、オアシスのようなものが見えているにもかかわらず、水筒をもって駆け出したりしないことの動機もしくは能力を帰属したりする。そういうわけでから、やがて神経生理学が進歩し、視覚神経系のしくみが現在よりもずっと詳細に明らかになったとしても、だからといって、それによって、見ることの何たるかが解明できるなどということはありえない。」
p.123「たしかに、想像のなかで距離と時間が相関していた被験者X自身にとっても、この相関の事実は「不意打ち」であり驚きであるかもしれない。この驚きは、コスリンらにしてみれば、心的イメージの一つの特徴(「擬似絵画的」であるという)の発見の驚きであろうし、ピリジンにしてみれば、「暗黙の知識」がそんなところまで「浸透」することの驚きと似ているように思える。私たちは、自分が自転車に乗るとき、いつもハンドルの曲率と左右の傾きの角度が、物理法則に則ったかたちで、きわめて精確に対応していることを数値的に示されたならば、きっと驚きに違いない。私たちは、ハンドルの曲率がどうのこうのなどということは、たしかに知らない。だから、「きみが自転車に乗っているところをビデオにとってそれを分析したら、重心の傾きの角度にハンドルの曲率を精確に対応させながら自転車を操っていた」などと言われれば、きっと驚くにちがいない。しかし、わたしたちが驚きのは、そのようなことを自分が「暗黙のうちに」知っていたことを発見したからではないだろう。私たちは、そもそもそんなふうに自転車を操っているわけではない。子どもに自転車の乗り方を説明することもできるし、ハンドルをどう使うか教えることもできるだろう。たしかに、物理学者は、自転車で平衡を維持するための物理学的原理を知っているにちがいない。それでも、物理学者は自分が自転車に乗るときは、やはり、その原理にしたがって重心の傾きにハンドルの曲率を対応させることをしているわけではあるまい。そんなことをしていたら、おそらく次にどうするかを考えているあいだに転んでしまうにちがいない」
p.179「エスノメソドロジーは、もはや合理的特徴の産出・構築の一般的な条件を(構築的に)特定したりはしない。むしろ、その特徴がそのつどの状況に応じて(そのつどの状況における様々な偶然的条件に依存しながら)どう産出されていくのかを明らかにしようとする」
「合理的特徴の産出・構築の手続きを一般的な形で示しているからといって、その産出・構築のための必要条件なり十分条件なりが示されるわけではない。人びと(あるいは、日ごろの自分たち)が実際に行っていることが概観されているにすぎない」