飯田隆著『規則と意味のパラドックス』(2016)

言葉はそもそも意味をもちうるのか?言語を通したコミュニケーションを可能にする「規則」に、私たちは従うことができるのだろうか?クリプキウィトゲンシュタインのなかに、こうした問いに否と答える驚くべき議論を見出した。それによれば、私たちが自明のものとして使用する「プラス」のような記号でさえ、「68+57=5」という奇妙な結果に導く可能性を否定することはできないのだ。言語に内在するこうしたパラドックスをいかに解決することができるのか。日本を代表する言語哲学者が切れ味抜群の議論で謎に挑む。哲学的思考への最強の入門書。

第1章 グルー
第2章 クワス
第3章 懐疑的解決
第4章 ウィトゲンシュタイン
第5章 規則のパラドックス
第6章 論理と規則

森本浩一著『デイヴィドソン ―「言語」なんて存在するのだろうか』(2004)

コミュニケーションの原理を見通す。ことばによって他者を理解するとはどういうことか。解釈の賭を通じて生み出される合意。それを可能にするのは言語能力ではなく生きることへの熟練である。

第1章 言語哲学は意味をどう扱うか
 意味とは何か
 「ふたり」のコミュニケーション
第2章 真理と解釈の第一次性
 真理条件という考え方
 寛容の原理
第3章 コミュニケーションの哲学へ向けて
 解釈のプロセス
 言語非存在論
第4章 「言語」ではなく数多くの言語が存在する
 意図と規約
 デリダデイヴィドソン

25「文が意味を持つということは、それが世界内の何らかの事態に差し向けられているということであり、そのことによってわれわれは世界について「語る」ことができる。言語とわれわれと世界との関係の結節点にあるのが「真である」という述語です。それは、この意味論の枠組の中で、先行する何か別の概念によって定義することができない基本的な述語として使用されるものです。「真である」を未定義の原初的述語として利用するという天に、真理条件から意味を説明しようとする議論のきわめて重要な特徴があります。
 後にデイヴィドソンは、この「真である」(=真理)の定義不可能な先行性を、自らの議論のかなめとして戦略的に利用することになります」
41「少しわかりにくいところですが、要は、そのつど真理条件の確定がいかに経験的でアドホック(場当たり的)なものだとしても、解釈は必ずそうした構造を「見越して」いることになる、ということです。「意味の理論」とは、その言語の可能なあらゆるT-文を羅列したものではなく、可能なあらゆるT-文を生み出すことができるような一定のシステムのことです」
44 飯田隆言語哲学大全IV 真理と意味』「「意味の理論」の実際の探求がどういうものになるかは…などからうかがうことができます」

言語哲学大全〈4〉真理と意味

言語哲学大全〈4〉真理と意味

46「われわれは他者と向き合い、相手のことばと事実の両方を眺めながら、個々のT-文を発見してゆきます。その数が増えてゆくにつれて、それらを導き出す構造についての理解(理論的に記述すれば、全体論的な「意味の理論」となるような)も精度が上がり、コミュニケーションの成功率も高くなります。「証拠となるような断片(ここでは様々な文の真理値)はわずかでも、十分な分量の断片にまで形式的構造を推及することで、わずかな断片から豊かな内容(ここでは翻訳にかなり近い何か)を引き出すことができるようになるのです。
 こうして、他者の言語を理解するという出来事が、T-文の解釈、つまり「真である」という無定義述語を活用して文と事態を連結するプロセスとして説明されます」

ドナルド・デイヴィッドソン著, 服部裕幸, 柴田正良訳『行為と出来事』(1980=1989)

行為と出来事

行為と出来事

行為の因果説を普及させ、行為文の論理形式の分析や心身問題における非法則的一元論の提唱など、新鮮な問題提起により現代哲学を常に震撼させてきたデイヴィドソンの初訳。

日本語版への序

凡例
I 意図と行為
 第一章 行為・理由・原因
 第二章 意志の弱さはいかにして可能か 
 第三章 行為者性
 第四章 意図すること
II 出来事と原因
 第五章 行為文の論理形式
  批判・注釈・擁護
 第六章 因果関係
 第七章 出来事の個別化
III 心理学の哲学
 第八章 心的出来事
 付録 エメバラの名が何と変わろうとも
第九章 哲学としての心理学
 注釈と応答
訳者解説[服部裕幸]
訳者あとがき
参考文献
索引

73「しかし、われわれが行為者に帰属させるすべての出来事が、彼が行為者となっている別の出来事によって惹き起こされたものとして説明されうるわけではない。すなわち、いくつかの行為は、その同じ行為者による行為と因果的に関係づけられることによっては分析できないという意味において、原初的(primitive)でなければならないのである。しかしその場合、行為者と原初的行為との関係を説明するために、出来事因果性を先ほどのような仕方で用いることはできない」「もし身体運動という概念を寛大に解釈するならば、すべての原初的行為は身体運動である、という主張に対する一つの論拠を得ることができる。この寛大さは、一歩も退かないといった「運動」や、決定するとか計算するといった心的行為を含むほどに、十分おおらかなものでなければならない」「しかしながら、指さすとか靴紐を結ぶなどのような日常的行為において、原初的行為が身体運動であることを示すのは重要である」
90「さて今や、われわれは、行為者と彼の行為についての問題に戻ることができよう。われわれが到達した否定的な結論は次のようなものである。すなわち、原因の概念はこの関係と直接何の関わりももっていない。ある行為aがある結果を生じさせるという知識によって、われわれは当の行為者をその結果の原因として記述することができるが、しかし、これはaを記述する一つの便利な方法にすぎず、すでに見たように、”aそのもの”にとっては、彼が原因であると述べることには何の意味もないのである。因果性によってわれわれは、他の出来事なら再記述できないような仕方で行為を再記述することができる。この事実は行為の徴表ではあるが、行為者性の分析を何ら提供するものではない」
土井『友だち地獄』

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

長谷, 奥村『コミュニケーションの社会学
コミュニケーションの社会学 (有斐閣アルマ)

コミュニケーションの社会学 (有斐閣アルマ)

吉田民人編『社会学の理論でとく現代のしくみ』
社会学の理論でとく現代のしくみ

社会学の理論でとく現代のしくみ

森『ほんとはこわい「やさしさ社会」』
ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書)

ほんとはこわい「やさしさ社会」 (ちくまプリマー新書)

諏訪『オレ様化する子どもたち』
オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

上野修著『スピノザの世界―神あるいは自然』(2005)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの思想史的評価については多くのことが言われてきた。デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係。国家論におけるホッブズとの関係。初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。ドイツ観念論スピノザ。現代では、アルチュセールドゥルーズネグリレヴィナスといった名前がスピノザの名とともに語られる。スピノザはいたるところにいる。が、すべては微妙だ。たしかにスピノザについてはたくさん言うべきことがある。そのためにはスピノザの知的背景と時代背景、後代への影響、現代のスピノザ受容の状況を勉強する必要がある。けれども、まずはスピノザ自身の言っていることを知らなければどうしようもない。そのためには、スピノザがどこまで行ったのか、彼の世界を果てまで歩いてみるほかない。彼が望んだようにミニマリズムに与し、彼の理解したように事物の愛を学ぶほかないのである。

1.企て
2.真理
3.神あるいは自然
4.人間
5.倫理
6.永遠

33「何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものではないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが努力(コナトゥス conatus)と呼ばれる」
48 真理の「外的標識」と 50「内的標識」
55 疑問:スピノザは真理を知るには、外的標識は不要であり、内的標識を思考すればいいと述べる。しかし、シーザー例文において、「古代ローマの歴史を知ること」と、事実との照合一致はどう違うのか?命題がきっかけで検証できるという意味なら、どちらも同じではないか。ならば、外的/内的はそんなに違わないということになる。真なる観念/真ならざる観念の区別が、内的標識からはじまるのは正しい。しかし、それが検証に及ぶとたちまち違いがわからなくなる。いや、命題が検証に及んだとき、内的/外的という区分が発生していないか?
59「存在するかどうか、シーザーの本質だけからは何とも言えない事柄でも、それがどういう外的原因のもとで存在しうるかを知り、同時に自然の因果秩序に注意するよう心がければひどく間違いはしない(科学とはそういうものであろう)」
87 A属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
88「「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのが永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する」
99「こうしてひとり神のみが「自由原因」であることになる。スピノザの神は制作しないので、外から働く「超越的原因」ではない。あらゆるものの本質と存在そして働きを自分自身の本性の必然性から帰結する「内在的原因」である(定理18)。いわゆる「汎神論」だ」
111 スピはデカルト二元論について、同一の事物の異なる表現として、そのもの(現に存在する台風)と観念(台風の観念)を説明した。しかし、ここでも、なぜそれがわかるのかという疑問がある。私が事物を観察し、観念しなければ事物は認識しえない。ならば、ここでもやはり「私」の壁が問題になる。
129 主観的な認識のモードから離れた「共通概念」

岡部勉著『合理的とはどういうことか−愚かさと弱さの哲学』(2007)

合理的とはどういうことか (講談社選書メチエ)

合理的とはどういうことか (講談社選書メチエ)

なぜ私たちは、不合理な行動をしたり、意志の弱さや愚かさを見せたりしてしまうのか。それらの行為は「理性」に反したものなのだろうか。この問いから、人間であるという、そのあり方の本質が見えてくる。進化の歴史から日常的な問題まで幅広いスケールで繰り広げる「合理的である」ことをめぐる思考の冒険。

序章 不合理な存在
 日常の合理・不合理という問題
 社会性と計画性 ほか
第1章 人間の不合理・愚かさ・弱さ
 意志の弱さと行為の選択
 こころの仕組み ほか
第2章 人間だけが不合理であり得る理由
 人間性の起源
 不合理性の源泉
第3章 不合理・愚かさ・弱さと常識の不寛容
 私たちが求める合理性
 プロフェッショナリズム ほか
第4章 人間の自然・不自然と不合理
 自然・不自然・不合理
 自然的世界と価値の世界

20, 192(2) ディヴィドソン『行為と出来事』「第2章 意思の弱さはいかにして可能か」

行為と出来事

行為と出来事

47, 194, 20 戸田『感情』ダマシオ『生存する脳』
生存する脳―心と脳と身体の神秘

生存する脳―心と脳と身体の神秘

58 アリストテレス→グライスの目的論に依拠されると厳しい
65 アリ自己決定論(自己決定論さされた行為でも選択された行為ではない)の3階層、①行為の成立要件(行為であるか?)次元。②なされた行為が選択されたものかを問う次元(意志の弱さ、無抑制)。③選択された行為の優劣を問う次元(規範的な合理性、不合理・愚かさ)
115 認知主義と道徳的実在論
120 認知主義とそれを批判したバーナード・ウィリアムズという構図
アンスコムインテンション
インテンション―実践知の考察

インテンション―実践知の考察

ダメット『分析哲学の起源』
分析哲学の起源―言語への転回

分析哲学の起源―言語への転回

ドーキンス『盲目の時計職人』
盲目の時計職人

盲目の時計職人

デイヴィドソン『行為と出来事』
行為と出来事

行為と出来事

大庭健著『はじめての分析哲学』(1990)

はじめての分析哲学

はじめての分析哲学

序章
第1章 哲学の変貌と分析哲学
 近代哲学の認識論敵的転回
 二〇世紀科学と論理実証主義
 論理実証主義の基本思想と、その自己修正
第2章 『経験論の二つのドグマ』―論理実証主義vsプラグマティズム
 『テスト可能性』以後の論理実証主義
 分析性の否定と<ホーリズム
 実在と惜定―『二つのドグマ』のプラグマティズムにおける反実在論
幕間にて
第3章 「科学の成功」・指示・真
 <指示>の非決定性と理論の共約不可能性
 科学の成功と、真・指示
結びに代えて 科学は如何なる意味で「成功」なのか

田口茂著『現象学という思考ー〈自明なもの〉の知へ』(2014)

日常においてはいつも素通りされている豊かな経験の世界がある―。“自明”であるがゆえに眼を向けられることのないこの経験の世界を現象学は精査し、われわれにとっての「現実」が成立する構造を明るみに出す。創始者フッサール以来続く哲学的営為の核心にあるものは何か。そしていまだ汲みつくせないその可能性とは。本書は粘り強い思索の手触りとともに、読者を生と世界を見つけなおす新たな思考へと誘う。

序章 「確かさ」から「自明なもの」へ
第1章 「確かである」とはどういうことか?―「あたりまえ」への問い
第2章 「物」―流れのなかで構造をつかむということ
第3章 本質―現象の横断的結びつき
第4章 類型―われわれを巻き込む「形」の力
第5章 自我―諸現象のゼロ変換
第6章 変様―自我は生きた現在に追いつけない
第7章 間主観性―振動する「間」の媒介
終章 回顧と梗概

162「「世界」および「人間」とは、この事実によって生起した出来事の「形」に付けられた名前にすぎないからである。この事実が生起している「場」は、さしあたり名前のない現象の流れである。これにフッサールは「絶対的意識」、「純粋意識」、「超越論的主観性」といったはなはだ誤解を生みやすい名前をつけた。名前にとらわれて実情を見失うことを避けようとして、新たな名前によって新たな誤認を生み出してしまったといってもよいだろう。実情に留意しているかぎりは(現象学者が言葉の内容によく気をつけて議論しているかぎりは)、こうした記号のような名前もそれほど危険ではないかもしれないが、やはりフッサールは「名前をつける」ことの怖さを十分に認識していなかったのではないか、と言わざるをえない(ハイデガーメルロ=ポンティは、こうした危険により敏感であった。彼らが工夫した擁護、たとえば「現存在」「世界内存在」「世界の肉」といった語は、そうした敏感さをよく示している)」