上野修著『スピノザの世界―神あるいは自然』(2005)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの思想史的評価については多くのことが言われてきた。デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係。国家論におけるホッブズとの関係。初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。ドイツ観念論スピノザ。現代では、アルチュセールドゥルーズネグリレヴィナスといった名前がスピノザの名とともに語られる。スピノザはいたるところにいる。が、すべては微妙だ。たしかにスピノザについてはたくさん言うべきことがある。そのためにはスピノザの知的背景と時代背景、後代への影響、現代のスピノザ受容の状況を勉強する必要がある。けれども、まずはスピノザ自身の言っていることを知らなければどうしようもない。そのためには、スピノザがどこまで行ったのか、彼の世界を果てまで歩いてみるほかない。彼が望んだようにミニマリズムに与し、彼の理解したように事物の愛を学ぶほかないのである。

1.企て
2.真理
3.神あるいは自然
4.人間
5.倫理
6.永遠

33「何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものではないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが努力(コナトゥス conatus)と呼ばれる」
48 真理の「外的標識」と 50「内的標識」
55 疑問:スピノザは真理を知るには、外的標識は不要であり、内的標識を思考すればいいと述べる。しかし、シーザー例文において、「古代ローマの歴史を知ること」と、事実との照合一致はどう違うのか?命題がきっかけで検証できるという意味なら、どちらも同じではないか。ならば、外的/内的はそんなに違わないということになる。真なる観念/真ならざる観念の区別が、内的標識からはじまるのは正しい。しかし、それが検証に及ぶとたちまち違いがわからなくなる。いや、命題が検証に及んだとき、内的/外的という区分が発生していないか?
59「存在するかどうか、シーザーの本質だけからは何とも言えない事柄でも、それがどういう外的原因のもとで存在しうるかを知り、同時に自然の因果秩序に注意するよう心がければひどく間違いはしない(科学とはそういうものであろう)」
87 A属性の実体(唯一・自己原因・永遠・無限)
88「「神」とは、絶対に無限なる実有、言い換えればおのおのが永遠・無限なる本質を表現する無限に多くの属性から成り立っている実体、と解する」
99「こうしてひとり神のみが「自由原因」であることになる。スピノザの神は制作しないので、外から働く「超越的原因」ではない。あらゆるものの本質と存在そして働きを自分自身の本性の必然性から帰結する「内在的原因」である(定理18)。いわゆる「汎神論」だ」
111 スピはデカルト二元論について、同一の事物の異なる表現として、そのもの(現に存在する台風)と観念(台風の観念)を説明した。しかし、ここでも、なぜそれがわかるのかという疑問がある。私が事物を観察し、観念しなければ事物は認識しえない。ならば、ここでもやはり「私」の壁が問題になる。
129 主観的な認識のモードから離れた「共通概念」