田口茂著『現象学という思考ー〈自明なもの〉の知へ』(2014)

日常においてはいつも素通りされている豊かな経験の世界がある―。“自明”であるがゆえに眼を向けられることのないこの経験の世界を現象学は精査し、われわれにとっての「現実」が成立する構造を明るみに出す。創始者フッサール以来続く哲学的営為の核心にあるものは何か。そしていまだ汲みつくせないその可能性とは。本書は粘り強い思索の手触りとともに、読者を生と世界を見つけなおす新たな思考へと誘う。

序章 「確かさ」から「自明なもの」へ
第1章 「確かである」とはどういうことか?―「あたりまえ」への問い
第2章 「物」―流れのなかで構造をつかむということ
第3章 本質―現象の横断的結びつき
第4章 類型―われわれを巻き込む「形」の力
第5章 自我―諸現象のゼロ変換
第6章 変様―自我は生きた現在に追いつけない
第7章 間主観性―振動する「間」の媒介
終章 回顧と梗概

162「「世界」および「人間」とは、この事実によって生起した出来事の「形」に付けられた名前にすぎないからである。この事実が生起している「場」は、さしあたり名前のない現象の流れである。これにフッサールは「絶対的意識」、「純粋意識」、「超越論的主観性」といったはなはだ誤解を生みやすい名前をつけた。名前にとらわれて実情を見失うことを避けようとして、新たな名前によって新たな誤認を生み出してしまったといってもよいだろう。実情に留意しているかぎりは(現象学者が言葉の内容によく気をつけて議論しているかぎりは)、こうした記号のような名前もそれほど危険ではないかもしれないが、やはりフッサールは「名前をつける」ことの怖さを十分に認識していなかったのではないか、と言わざるをえない(ハイデガーメルロ=ポンティは、こうした危険により敏感であった。彼らが工夫した擁護、たとえば「現存在」「世界内存在」「世界の肉」といった語は、そうした敏感さをよく示している)」