池田寛二「環境社会学のブレイクスルー―言説の統治を超えて―」『環境社会学研究』2014年, 20巻, p.4-16

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今回の特集では,本誌の創刊から20年間の世界と日本の環境と社会の変容の趨勢を踏まえつつ,その中で環境社会学はいかなる方向にブレイクスルーできるのか,あるいはすべきなのか,いずれも示唆に富む4本の論文によって検討している。

この20年間,地球規模でも国内的にも,環境問題への取組みは急速に進展したように見える。だが実際には,環境はそれほど改善されていない。化石燃料の消費量は今なお増え続け,気候変動は効果的に制御されず,熱帯林はさらに縮小しつつある。中国など新興国を中心に,大気汚染その他の環境問題がますます深刻化している国や地域も少なくない。このような現状にもかかわらず,環境改善のための人間の働きかけは世界的に進展しているという認識を正統化するいくつかの言説が,この20年間の世界を支配してきた。なかでも最も支配的な言説は,グローバル化,サステイナビリティ,そしてレジリエンスの3つである。これらはいずれも,この間の環境研究の課題設定に大きな影響力を及ぼしてきた。だが,環境社会学はこのような言説の支配を無批判に受け容れるのではなく,社会的現実の内側からそれらを相対化することによってこそ,独自のブレイクスルーの方向性を見出すことができるのではないかというのが,ここに収められた4論文に緩やかに共有されている問題意識である。

井上真は,ますますグローバル化しつつある環境政策に対して,常にローカルな現場の内側で研究してきた環境社会学者にこそ期待できるブレイクスルーの可能性を,「黒子」としての研究者像に見据えようとしている。

大塚善樹は,近年サステイナビリティに代わって支配的な言説となりつつあるレジリエンスの概念を,自然環境と社会の結節点を主体的に<想起>する人びとの能動性の考察を通して,環境社会学の視点からブレイクスルーしようとしている。

三浦耕吉郎は,被害論という環境社会学の原点に立ち戻り,これまで展開してきた「構造的差別」論に依拠しながら,福島第一原子力発電所の事故がひき起した「風評被害」に象徴される今日の社会を覆う異様な閉塞状況からのブレイクスルーを試みている。

福永真弓は,この20年間に世界的に普及したサステイナビリティの概念が,自然や人びとの生そのものを統治する道具として作用していることに警鐘を鳴らしたうえで,環境社会学における正義論の再構築にそのような統治からのブレイクスルーの可能性を見出そうとしている。