中村秀之著『映像/言説の文化社会学 -フィルム・ノワールとモダニティ』(2003)メモ

映像/言説の文化社会学―フィルム・ノワールとモダニティ (現代社会学選書)

映像/言説の文化社会学―フィルム・ノワールとモダニティ (現代社会学選書)

第二次大戦前夜から現代までの映画言説を渉猟し、フィルム・ノワール(暗黒映画)という記号の分析を通して現代文化への新たな視点を提示する。映画研究、文化史、現代思想を横断する刺激的な論考。

序章 「いかがわしきもの」の系譜学に向けて
第1章 フィルム・ノワールとハリウッド映画
 ジャンルとその生成
 映画の文化的卓越化
 ノワールという理念の方へ
第2章 「暗黒映画」の転生―1938~1955
 戦前フランスにおける「暗黒映画」
 「アメリカ人もまた「暗黒の」映画を作る」
 分身としての暗黒映画
第3章 ハリウッドの殺人メロドラマ―1943~1947
 殺人メロドラマの流行
 殺人メロドラマとハリウッドの再構築
 殺人メロドラマの言説)
第4章 フィルム・ノワールと映画文化の転換―1970~1997
 アメリカにおけるフィルム・ノワール
 ポスト=ノワール

1章 コピー
39, 247 注11 「1939年は、たとえば観客動員数や興行収入という点で頂点だったというわけではないが、一般にアメリカ映画史上の名作と評価されるようになる映画が集中して生み出され、いわゆるスタジオ・システムが最高の達成を示した年と見なされている」1939年『風と共に去りぬ』『オズの魔法使い』『駅馬車』『スミス都へ行く』『コンドル』『嵐が丘』『ニノチカ
47, 249 注17

小津安二郎 映画の詩学

小津安二郎 映画の詩学

93 1946年「5月28日にアメリカとの間で締結されたばかりのブルーム=バーンズ協定は、占領下において虐殺的にも外国映画から保護されていたフランス映画産業を脅かすものだった。フランスの映画産業が合衆国による戦後の資金援助の「質草」にされた協定といわれることもあるほどだが、その内容な、3ヶ月ごとに4週間すなわち全上映時間中少なくとも30%をフランス映画の上映に当てる意外にはアメリカ映画の輸入制限を行わないというもので、実質的な市場開放を定めたものである。その結果、46年上半期に上映されたアメリカ映画は38本にすぎなかったのが、協定締結後の同年下半期には144本に急増し、翌47年上半期には338本に達した。興行収入に占めるフランス映画の割合は38年の65%、43年の85%に対して38%にまで落ち込む。このため「フランス映画防衛委員会」を中心とする抗議運動が高まり、48年1月には1万人デモも行われたほどである」128
メロドラマ的想像力

メロドラマ的想像力

「強い感情への耽溺、道徳の分極化と図式、極限的な存在状態、状況、行動。あからさまな悪行、善なる者たちへの迫害、そして、最後に美徳の勝利。誇張された表現。いわくありげなプロット、サスペンス、生きをのむような運命の激変」
136 『深夜の告白』『飾窓の女』『ローラ殺人事件』『欲望の果て』『幻の女』「これらの映画の共通点は、既存のフィルム・ノワール論で繰り返し語られてきた。それはアメリカのハードボイルドしょうせtうとドイツ表現主義映画との結合だというのである」レイモンド・チャンドラージェイムズ・M・ケインなど原作で、ドイツ=オーストリア出身の、しかもナチスの政権獲得後に亡命した監督によって演出された。「しかいs,〈ハードボイルド小説+表現主義映画=フィルム・ノワール〉というこの図式は、最近の映画史家たちの仕事が論証してきたように、厳密な歴史的吟味に耐えうるものではない」
141「見られるように、原=ノワールを企画・製作した各ユニットのフィルムメイカーたちには共通点があった。それは、よくいわれるようなドイツ=オーストリア系の亡命者という属性なのではない。むしろ、アメリカ映画産業、あるいはハリウッド映画という場のなかで彼らの当時のポジションである。フリッツ・ラングを除けば、新規に事業を開始しようとするプロデューサーか、新進気鋭として注目を集め始めていたフィルムメイカーたちである。あるいは独立を選び、あるいは下積みの段階を乗り越えて相対的な自由を獲得しつつあった上昇中の勢力なのである」「ジョーン・ハリソンはヒッチコックの協力者として経験を積んだ脚本家」ロバート・シオドマーク、ナナリー・ジョンソン飾窓の女』のプロデューサー、オットー・プレミンジャービリー・ワイルダー、ロシア系カナダ人エドワード・ドミトリク
142,262 注24148「戦時下にアメリカ合衆国プロパガンダの中枢を担った機関は42年6月に設置された戦時情報局(The Office of War Information, OWI)だった。ローズベルト大統領は、一方では映画産業が政府の直接の統制をウケずに商業活動を継続することを認める考えだったが、他方では十分な戦争協力を期待してもいた。そのため真珠湾攻撃の数日後には、映画産業に対する「助言」を行う調整役としてロウウエル・メレットを任命し、その際、ローズベルトがハリウッド映画に期待する戦争関連の6つの主題をメレットにつたている。すなわち、問題の核心(「われわれはなぜ戦うのか」)、敵、連合国、銃後、清算、合衆国軍である。このような「助言」を行う公式の機関としてOWIに映画局(The Bureau of Motion Pictures, BMP)が設けられた。しかし映画産業は其の頃にはすでに製作・配給・上映の各段階で自発的な戦争協力を行っていた。映画館をコミュニティ・センターや戦時国際の発売窓口、重要物資の集積所として提供し、大量の映画のストックを16ミリに焼き直して内外の基地に送った。そして製作面では、フランク・キャプラジョン・フォードのような大監督が軍務としてプロパガンダ映画の製作に従事する一方で、各スタジオは戦争を題材とした長編劇映画を通常の生産ラインから大量に送り出していった。42年から44年にかけて製作された戦争映画は、第二次大戦を直接扱ったものが312本、第一次大戦やスペイン市民戦争などの他の戦争を題材としたものまで含めると376本、製作本数全体のおよそ四分の一を占めたという。つまり、戦争映画はこの時期のジャンル映画の主要な地位を占めるにいたったわけである。この新しい傾向は観客にも支持され、42年に行われたある調査では、戦争映画はミュージカル・コメディやラブ・ストーリーと並ぶ人気最上位のジャンルであった」
166 70年代以降の精神分析的映画研究について。「むしろ驚くべきことに、ここでの夢は解釈という厄介な問題を提起するものであるどころか、逆説的なことに、テクストを逐語的(リテラル)に読むことの口実(プレテクスト)となっているのである。映画の物語世界は時代の深層心理を隠さずに表象する夢ー私たちの無意識の自画像ーである以上、それをそのまま読めばいいのだ、と、これらの著者たちは信じているかのようなのだ」
215 マックス・ノセック監督『犯罪王デリンジャー』(1945)
ハリウッド帝国の興亡―夢工場の1940年代

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アメリカ文学と映画―原作から映像へ

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