長谷正人・中村秀之編著『映画の政治学』(2003)メモ

映画の政治学

映画の政治学

映画とは、社会的・歴史的に生起する複数の事件である──。私的趣味の問題として消費され政治的な磁場を失ってしまった映画的言説。その空虚さにあらがい、映像をめぐる思考をふたたび公共世界へと救い出そうとする、来るべき言葉のための映画批評集。

目次
はじめに 長谷正人
第1部 戦後日本映画のポリティクス
第1章 占領下の時代劇としての『羅生門』──「映像の社会学」の可能性をめぐって 長谷正人
 1 「映像」と「社会」の関係
 2 『羅生門』の社会学
 3 占領下の言説空間と時代劇の革新
 4 黒澤明による殺陣の革新──『荒木又右衛門  決闘鍵屋の辻』と『羅生門
 5 ヒューマニズム的な残酷表現のパラドックス
第2章 失われたファルスを求めて──木下惠介の「涙の三部作」再考 斉藤綾子
 1 問題提起
 2 涙の神話性
 3 木下的共同体の謎
 4 敗戦という外傷(ルビ:トラウマ)
 5 ドミナント・フィクション
 6 不安と涙
 7 「涙の三部作」の意味
第2部 ハリウッド映画のポリティクス
第3章 ハリウッド映画へのニュースの侵入──『スミス都へ行く』と『市民ケーン』におけるメディアとメロドラマ 中村秀之
 1 ハリウッド映画、政治的公共圏、ニュース・メディア──一九三八─三九年
 2 『スミス都へ行く』──メディアのメロドラマ的空間表象
 3 『市民ケーン』──メロドラマ的メディア空間の脱構築
第4章 ヒッチコック(もまた)戦争に行く──『救命艇』のなかの黒人 飯岡詩朗
 1 ハリウッド、戦争に行く
 2 『救命艇』と第二次世界大戦
 3 ヒッチコック研究から離れて
 4 黒人はいかに表象されているか
 5 ツーショットを読む
 6 ナチはいかに表象されているか
 7 見ているのは誰か──フレームの内と外
 8 「わかりやすさ」の外へ向かって
第5章 『シンドラーのリスト』は『ショアー』ではない──第二戒、ポピュラー・モダニズム、公共の記憶 ミリアム・ブラトゥ・ハンセン[畠山宗明訳]
解題/畠山宗明
第3部 ノンフィクション映画のポリティクス
第6章 柳田國男と文化映画──昭和十年代における日常生活の発見と国民の創造/想像 藤井仁子
 1 文化映画と民俗学
 2 三木茂と柳田國男
第7章 反到着の物語──エスノグラフィーとしての小川プロ映画 北小路隆志
 1 フィールド=戦場の「発見」
 2 「到着の物語」
 3 複数の「近代」
 4 反「到着」の物語
 5 結びにかえて
文献案内
あとがき 中村秀之
初出一覧

・中村論文
p.165 注(23)「フレデリック・ジェイムソンは、『地政学的美学』の注の一つで次のような「仮説」を提出している。すなわち、「映画のなかに他のメディアが現れるときにはいつも、その深層は映画の[他のメディアに対する]存在論的優位を際立たせ、誇示することにある」と。
p.139.「カルテンボーンのショットは、視線のネットワークをつうじて物語世界へと観客を編み込むべく統合される古典的映画のショットとは異なり、それぞれが独立した見世物的効果を有するべく劇場の観客に向けてじかに呼びかける初期映画のショットに近似している」『アンチ・スペクタクル』を参照。

p.354 日本の検閲問題

天皇と接吻―アメリカ占領下の日本映画検閲

天皇と接吻―アメリカ占領下の日本映画検閲

アメリカ映画と占領政策

アメリカ映画と占領政策

ハリウッドの検閲問題。既読
映画 視線のポリティクス―古典的ハリウッド映画の戦い

映画 視線のポリティクス―古典的ハリウッド映画の戦い

p.359 ハリウッド映画におけるメロドラマとニュース・メディアの関連について。中村によると文献が不足しているが、挙げるとすれば。特に下巻3部。
アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ〈上〉 (講談社学術文庫)

アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ〈上〉 (講談社学術文庫)

映像/言説の文化社会学―フィルム・ノワールとモダニティ (現代社会学選書)

映像/言説の文化社会学―フィルム・ノワールとモダニティ (現代社会学選書)

p.361 メロドラマ。古典的地位。「分析対象が19世紀の長編小説であるとはいえ、原罪のメディアにも広範囲に存続するこの「文化形式」を考えるうえで決定的に重要な著作」
メロドラマ的想像力

メロドラマ的想像力

p.362 「ハリウッド映画研究の入門書=教科書」
Hollywood Cinema: An Introduction

Hollywood Cinema: An Introduction