北田暁大『責任と正義ーリベラリズムの居場所』(2003)メモ

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

目次
なぜ今、リベラリズムなのか―まえがきにかえて
 第一部 責任の社会理論 responsibility socialized
第一章 コミュニケーションのなかの責任と道徳
 一 問題としての「コミュニケーション的行為の理論」ハーバーマス理論の再検討
  [1] 発語内行為の構造
  [2] 発語内行為はいかにして成立するのか
 二 行為の同一性と責任 構成主義の行為理論
  [1] コミュニケーションと行為
  [2] 共同の論理と協働の論理
第二章 構成主義的責任論とその限界
 一 行為の責任・再考 構成主義的に「責任」を考える
  [1] 構成主義テーゼから「強い」責任理論へ
  [2] 「強い」責任理論の存在証明
 二 ラディカルな責任のスタイル ポストモダン政治学との対話
  [1] 耳を傾ける責任 異議申し立て=行為記述の第一義性
  [2] 聞かないことの責任 沈黙の政治学
 三 転回 強い責任理論は規範理論たりうるのか
  [1] 責任のインフレ問題
  [2] 「よりよき物象化」論は規範理論たりうるか
 第二部 社会的なるものへの懐疑 skepticism on the social
第三章 Why be social? 私たちはなぜ責任をとる「べき」なのか?
 一 事実/価値の二元論は失効したのか
  [1] 事実の価値非拘束性
  [2] 事実/価値の問題系と存在/当為の問題系の差分
 二 存在/当為の「脱構築」を拒むもの
  [1] サールの論証の<当たり前さ>について
  [2] 規範の他者/制度の他者
 三 社会(科)学は倫理を語りうるか
  [1] 社会(科)学とヒューム問題
  [2] 社会学的思考の《原罪》 他者の問いの隠蔽
第四章 How to be(come) social? ささやかなリベラルたちの生
 一 ギュゲスの指輪は存在しない?
  [1] アイロニスト/理性主義者/自然主義
  [2] アイロニカルな説得の不可能性
 二 《制度の他者》から《規範の他者》へ
  [1] 問いの伝達不可能性 解答され続けるが伝達されることのない問い
  [2] 《制度の他者》から《規範の他者》へ フリーライダーへのて頽落
 三 《規範の他者》から《リベラル》へ
  [1] 長期的視点の導入
  [2] 対象性の承認 《権利》の生成
 第三部 リベラリズムとその外部 liberalism and its others
第五章 《リベラル》たちの社会と《自由主義》のあいだ
 一 《リベラル》たちのプロフィール 《自由主義者》との種差
  [1] ルール準拠的態度
  [2] 理由の共同体
 二 「自由主義」の条件 《リベラル》が《自由主義者》となるためには何が必要か
  [1] 自由原理と正当化原理
  [2] 正当化原理にコミットすることの奇特さ
 三 「自由主義」を担保する《暴力》
  [1] 正当化原理の正当化 その1 ロールズ―原初の暴力
  [2] 正当化原理の正当化 その2 ノージック―事実上の独占
 四 「自由主義」国家の不可能性?
第六章 可能なるリベラリズムのために リベラリズムとその外部
 一 リベラリズムのプロフィール 薄いがゆえに濃い
  [1] リベラリズムのプロフィール その1 その「薄さ」をめぐって
  [2] リベラリズムのプロフィール その2 その「濃さ」をめぐって
 二 リベラリズムは外部とどのような関係を持つのか
  [1] 非《リベラル》たちとの関係 《自由主義者》のルールの適用可能性
  [2] (補論)贈与を受けるべき他者とは誰か 権利・合理性・尊厳
  [3] 非自由主義的《リベラル》との関係 「テロリズム」への倫理学
 第四部 「社会的なるもの」の回帰 the return of the social
第七章 正義の居場所 社会の自由主義
 一 システム論によるリベラリズムの最定位 コミュニケーションとしての正義
  [1] 二つの「社会」概念
  [2] 《正義》とはどのようなコミュニケーションなのか
 二 正義の居場所
  [1] 《正義》の居場所 その1 適度な複雑性としての《正義》
  [2] 《正義》の居場所 その2 足場なき寄食体としての《正義》

現実(主義)から遠く離れて―あとがきにかえて

立岩真也評【リンク
・三谷武司評【リンク】(pdf)
・三谷武司合評会メモ(上記書評の前段階、おそらく著者参加)【リンク

p.醃. 社会理論における《「社会的なるもの」の肥大/「政治的なるもの」の盲点化》p.醬. 「社会における「社会的なるもの」を相対化する言説が、社会理論における「社会的なるもの」の肥大=社会学帝国主義を帰結するという逆理」

p.23「実際、自然言語(言語行為)の抽象的構造を分析の基板に据えるハーバーマスも、幼児の言語能力獲得過程に経験的な証拠を求めたチョムスキーにも似て、コールバーグ流の発達心理学に熱いエールを送り、自らの掲げるコミュニケーション的理性の経験的証拠として換骨奪胎せんとしているが、こうしたことは、(言語)行為単体のアプリオリな自己同一性を認める理論的スタンスが、「合理性」を行為者自身に備わった能力へと還元する傾向を持つことを示している」

p.25 それへのルーマン「要するに、行為者に備わる能力としての合理性が相互行為を可能にするのではなく、他者についての合理性の前提こそが、コミュニケーションをもたらすのである」

p.26 ダニエル・デネット - Wikipedia - 【リンク

p.331.注(5)「とりわけ「権力」概念をめぐって、盛山和夫、志田基与師、永田えり子、西阪仰、大澤真幸宮台真司橋爪大三郎といった人々のあいだで世界的に見てもきわめて高水準の論戦がたたかわされたことは記憶に新しい」

p.338.注(21)「「強い」責任理論が反ユダヤ主義の武器となりうるというのと同様に、反実在論的な物語論が「修正主義者」たちの理論装備に寄与してしまうー「国民国家が幻想なら、よりよい幻想を創りだしていけばいい」ーという逆説を、我々は繰り返し魅せつけられてきた。この問題を「物語論の誤用・悪用」として回収してしまうのはあまりにも乱暴だ。物語論構築主義の「反実在論」が帰結する問題については、浅野智彦による内在的かつ精緻な研究を参照」

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

p.348.注(31)「思えば、《機能主義的逸脱理論→レイベリング理論→社会構築主義》という学説史の流れは、何とかして《原罪》から逃れ出んとする、極めて倫理的に誠実な試行錯誤の歴史であった。この知的葛藤の帰結が、「厳格派構築主義」と呼ばれるような無味乾燥な開き直りと、「このように語ってしまう私の政治性(を考えてしまう私の政治性・の政治性…)」への反省にヒロイックに耽溺する 「反省的社会学」にしか行き着かなかったとすれば、それは間違いなく悲劇である。反省にとりつかれた人たちを「若い頃には一度はかかる熱病」などとパターナリスティックに揶揄するつもりはないけれど、中河伸俊が強調するように、「悩んでいることを書く」のでなく、「書くことで悩む」ことこそが、《原罪》に対する唯一の対処法なのではないかと思う」

同.注(32)「ローティに対する私の見解については、北田[2001]を参照。「他者への尊重」を自然化するローティの所論に対する「反論」はまさしく枚挙に暇がない(日本語で読めるものとしては、何よりBernstein[1991=97]の第8,9章、浜野[2000]を…」
・北田のローティ評について収録。【リンク

反=理論のアクチュアリティー

反=理論のアクチュアリティー

手すりなき思考―現代思想の倫理‐政治的地平

手すりなき思考―現代思想の倫理‐政治的地平

p.350.注(4)ロック以来の人格の同一性に関する「名著」【リンク
人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

人格知識論の生成―ジョン・ロックの瞬間

p.351.注(7) 進化論的道徳理論について、まずは内井の一連の研究『進化論と倫理』
内井惣七 - Wikipedia - 【リンク
私的所有論 第2版

私的所有論 第2版

リベラリズムの存在証明

リベラリズムの存在証明

我々はなぜ道徳的か―ヒュームの洞察

我々はなぜ道徳的か―ヒュームの洞察