中村秀之著『敗者の身ぶり ーポスト占領期の日本映画』(2014)メモ

敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画

敗者の身ぶり――ポスト占領期の日本映画

1952年4月28日の対日講和条約の発効により日本は「独立」した.しかしこの「独立」は冷戦体制への従属という新たな「敗北」のはじまりでもあった.黒澤明小津安二郎成瀬巳喜男らをはじめとする映画の登場人物の身ぶりを通して,敗戦と占領という重みを負った「ポスト占領期」の日本の経験や精神を浮かび上がらせる.

「みんなしずかなもの」―― 一九五二年四月二八日
本書への案内

I 歴史の関をうつす
―― 『虎の尾を踏む男達』(一九四五/一九五二)とポスト占領期の日本映画
1 『虎の尾を踏む男達』(一九四五/一九五二)の神話・事実・寓意/2 ポスト占領期の日本映画

II 絆とそのうつろい
―― 小津安二郎の『晩春』(一九四九)と『麦秋』(一九五一)の抵抗と代補
1 ふたりの紀子/2 「日本的なもの」に屈して――『麦秋』(一九四九)/3 記憶をめぐる闘い――『麦秋』(一九五一)

III 富士山とレーニン帽を越えて
―― 谷口千吉の『赤線基地』(一九五三)における同一性の危機
1 忘れられた「基地もの」映画/2 「『赤線基地』問題」とは何か/3 「反米映画」としての『赤線基地』――アメリカ人の反応/4 同一性をめぐるせめぎ合い――『赤線基地』の闇の奥/5 政治的センセーショナリズムから寓意的な怪獣へ

IV ものいわぬ女たち
―― 黒澤明の〈ポスト占領期三部作〉(一九五二 − 一九五五)の政治的イメージ
1 自己の問い/他者達の問題/2 代行の僥倖――『生きる』(一九五二)/3 復讐の代行――『七人の侍』(一九五四)/代行の極限――『生きものの記録』(一九五五)/6 代行の廃墟で――〈ポスト占領期三部作〉のあと

V 涙の宥和
―― 『二等兵物語』シリーズ初期作品(一九五五 − 一九五六)による歴史の清算
1 娯楽映画と公共の記憶――「ブーム」のポリティクス/2 「二等兵ブーム」を構築する――「ノスタルジアのメタ言説」/3 「アチャラカ」を招集する――「兵隊喜劇」映画の誕生/4 敗軍の兵を許す――映画的荒唐無稽の論理/5 戦争の記憶を商品化する

VI 女が身をそむけるとき
―― 成瀬巳喜男における戦中(一九四一)と戦後(一九五五)の間
1 ニュース映画と国民=国家――『なつかしの顔』(一九四一)と『浮雲』(一九五五)/2 「観なくてもいいような気がしたの」――『懐かしの顔』(一九四一)の幻視/3 無縁の時――『浮雲』(一九五五)のさむけの果てに

付録 「我らを滅ぼせ」
―― 『ビハインド・ザ・ライズング・サン』(一九四三)の「良い日本人」
1 「映画版『菊と刀』」?/2 メイキング・オブ『ビハインド・ザ・ライジング・サン』/3 星のトモダチ――「良い日本人」の誕生/4 自殺する異教徒――共感のパラドクス/6 勝者の想像力の夜の果て

夜のしるし――映画,歴史,救済

196 ストック・フッテージ
197, 312 (3) 「映画と国民=国家に共通の特性」「双方を構成する共通のメカニズム」である〈投影〉(プロジェクション)」国民国家は領土や政府に還元されないひとつのイメージ。

映画と国民国家

映画と国民国家

283, 327 (44)
映画を見に行く普通の男―映画の夜と戦争 (エートル叢書)

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