『鋼の錬金術師』と「等価交換」の哲学

 最近、荒川弘鋼の錬金術師』のコミックを全巻読破した。少年漫画の伝統的形式を踏まえながら、それを破壊することなく緻密に練られた世界観や繊細な人物描写などの卓越した演出を維持することで、従来の凡庸なバトル漫画をはるかに超える完成度に仕上がっており、一気に読みきってしまった。しかし本作のストーリー展開や世界を支える根本的ルールについて、どうしても納得できない点が数カ所あった。今回はそれについて述べたい。

 大まかに分類してしまえば、疑問は二点ある。第一点は、物語中盤から終盤にかけて、主人公のエドとアルを凌ぐほどの活躍を見せる二人、ホムンクルス達の創造主である「お父様」こと「ホムンクルス」(以後、「お父様」のホムンクルスは「ホムンクルス」とカッコつきで表記。「ホムンクルス」によって生み出された子供たちは、ホムンクルスとそのまま表記)と、エド、アルの父であるホーエンハイムの対立点について。第二点は、物語のラストにてエド錬金術の能力を放棄した理由についてである。今回は前者について扱うこととする。

 「ホムンクルス」とホーエンハイムの両者はハガレン作中において、他の錬金術師をはるかに超えた強力な錬金術を扱うことができる。その理由は、彼らが賢者の石を体内に取り込み、それをエネルギー源として錬成を行なっているためである。物語の中盤に明らかになることだが、彼らに内属する賢者の石は、膨大な人数のクセルクセス人から錬成されており、「ホムンクルス」やホーエンハイムは賢者の石に込められた数十万、数百万に及ぶ彼らの生命を消費することによって、ほとんど無尽蔵(と思われるほど)に錬金術を扱うことができる。

 ところが終盤における両者の戦闘シーンにて、両者はほとんど同じ能力を有していながら、微妙に異なる特徴があることが明らかになる。第一に、ホーエンハイム錬金術はアメストリスの「錬金術」とは異なり、大地や生命の気の流れを利用するシン国の「錬丹術」に似ている。そのため「ホムンクルス」の錬金術封じが効かないこと。第二に、(こちらが重要なのだが)生命の能力への等価交換であるという点では、賢者の石由来の能力である二人の錬金術はまったく同じはずだが、ホーエンハイムに限っては、生命を消費されることについて賢者の石の材料にされた人びとが納得しているという事実が描かれているのだ。この点については「体内の53万6329人分の魂との対話を完了させ、『お父様』を倒すための共闘関係を築いていた」との説明も加えられている。

 しかしこの説明はにわかには納得しがたいものだ。先に述べたように、彼らに内属する賢者の石は、国家全土を用いた国土錬成陣によって錬成されたクセルクセス人の生命を凝縮することで精製されている。それをいかに利用しようが、圧倒的暴力のうえに成立しているという事実は動かしようがない。賢者の石の使用による生命消費の等価交換は、消費される命が「納得」した程度で肯定されるものだろうか?つまり「ホムンクルス」の(擬似)無限錬金術は望まない人びとを錬金術のために生贄にしているため認められないが、その点、ホーエンハイムは彼らに許可をとっているために容認されるということか?この点に関して、「対話」によって「了解」を得たとするホーエンハイムの説明は欺瞞めいているように思われる。仮に賢者の石に錬成された人びとが、錬金術のエネルギーとして利用されることにその場では納得してとしても、生命を消費している事実、さらには賢者の石を生み出すために大量殺戮された事実には変わりないのだから。

 考察を進めるために、本作の中心概念である錬金術について考えよう。『ユリイカ』の荒川弘特集号にて、星野太は錬金術マルクス経済学の知見になぞらえて考察する(『ユリイカ』2010年12月号「星野太「等価交換」のエコノミー 『鋼の錬金術師』の経済学的パラダイム」)。結論から述べれてしまえば、ハガレンの世界において賢者の石は資本の蓄積手段という事実であるというのが星野の主張である。どういうことか順を追って確認しよう。

 そもそもハガレンの世界にて錬金術が成立するためには、等価交換の原則を満たすことが最低限の必要条件である。等価交換とは、交換対象となるAとBの価値が同一であるとする双方の合意によって可能になるのだ。つまりa氏がAを所有しており、b氏がBを所有しているならば、a氏、b氏がともにAとBが同一の価値があると判断しなければ「等価交換」は成立しない。これはごく単純な経済原理である。たとえば、エドがユースウェル炭鉱の労働者に持ちかける「炭鉱の権利書と一宿一飯」という破格の「等価交換」が成立するのは、取引主体であるエドと炭鉱労働者の双方が、「両者が等価である」と(形式的であったとしても)みなすことが必要なのだ。それゆえに等価交換のコンセンサス形成はどうしても恣意的にならざるをえない*1。実際のところ、先の例では「炭鉱の権利書と一宿一飯」が等価であるという双方(とりわけエド)の恣意に支えられている。この原理のもとでは、交換対象が等価であることが、その場その場の恣意的判断によって評定されており、時間という概念が存在しない。これを「無時間的な交換のパラダイム」と名付けよう。「無時間的な交換のパラダイム」においては時間の概念がない以上、「資本の蓄積」という概念が存在しないことを意味する。

 ところがこのパラダイムは物語中盤から変化する。それは資本としての「魂」の登場、さらにその資本の蓄積を可能にする賢者の石の意義の更新である。物語序盤では等価交換の原則を無視(あるいは超克)した無限のエネルギー源として表象されていた賢者の石だが、実際には石の中に貯めこまれたエネルギーを貯蓄する、いわば銀行のような存在であったことが明らかになる。既に述べたように、賢者の石は、序盤でこそ「等価交換」の原則を超えた無尽蔵な錬成を可能にする道具として登場するが、実際には「等価交換」の原則のただなかにある存在に過ぎないことが明らかになる。既に述べたように、賢者の石はクセルクセス人を素材に錬成したものであり、彼らの命を「魂」という資本に変換して貯蓄されたエネルギーを、銀行からお金を下ろして消費にまわすようにして、錬金術に利用していた。言い換えれば、このエネルギーもまた有限であり、自身が賢者の石であるホーエンハイムや「ホムンクルス」、そしてホムンクルスの子供たちであっても、体内の賢者の石のエネルギーを使い果たせば力尽きてしまう。賢者の石の登場により、「資本の本源的蓄積」という原理が導入され、等価交換の原則に時間性が与えられたのだ。ここにて、「無時間的な交換のパラダイム」は「時間内的な交換のパラダイム」に移行したことになる。星野は賢者の石によって、全国民の資本蓄積が可能になった「ホムンクルス」やホーエンハイムを「大資本家」になぞらえる。彼ら等価交換の原理を超越したように見える達人ですら、実のところその原理の只中に残りながら、賢者の石による「貯蓄」という手段を導入することによって無類の強さを発揮していたことになるのだ。

 さて、当初の疑問は、ともに体内に賢者の石を取り込み、体内の大量の生命を消費しながら錬金術を扱う「ホムンクルス」とホーエンハイムの差異であった。確かに両者は資本として体内に蓄積した生命=魂の使用について、異なる考え方をもっている。「ホムンクルス」は単なる道具として、ホーエンハイムはひとりの人間として。しかしその両者が結局のところ同一の等価交換の原理の枠内にとどまり、大資本家として強力な錬金術を使用して生命消費している事実には変わりない。したがって両者の対立点は極めて曖昧になってしまう。しかし、物語はこの問題を宙吊りにしたまま進行する、その点では、エドとアルの兄弟と父親の和解、お互い強力しての「ホムンクルス」=全能なる原父の殺害というストーリー展開は、本来的対立を棚上げにした印象を受けるし、実に陳腐である。

 付言しておけば、この問題設定においては、戦闘の終盤において「ホムンクルス」はアメストリス全国民の魂を錬成した賢者の石を取り込み、「戦闘力」50万程度のホーエンハイムをはるかに超える資本をストックして「神」の力を超えようと試みる。したがって、二人の間では魂の資本に変換された人びとの数、殺害人数がまるで異なるのではないか、という反論が考えられるが、これは問題にならない。こうした疑問は極限の状況において、より多くの生命を救済するほうがベターであるとして、命を数値変換する功利主義的な立場に根ざしている。しかし、わたしの関心はその点ではない。「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」という等価交換の原則を遵守した上で、その暴力性を等閑視して大資本家が正義を戦わせている。その構造そのものに違和感があるのだ。

 議論を進めよう。なぜわたしは、「ホムンクルス」とホーエンハイムという物語のほんの一部分に過ぎない対立点を殊更取り上げたのか。それは第二の疑問にて提示する問題、本作の核心につながる問題と齟齬をきたしているように思われるためである。錬金術の枠内にとどまりながら、大資本家として暴力に加担した「ホムンクルス」とホーエンハイム。彼らを父として背中を追いながら、最終的には「等価交換」の原則という暴力を放棄することを選択したエド。「ホムンクルス」とホーエンハイムエドとアルの間の断絶に比べれば、「ホムンクルス」/ホーエンハイムの断絶はほとんど存在しないに等しい。にもかかわらず本作は、なぜ後者の対立にこだわり、前者を軽視したのか。この点については、エド錬金術の放棄を事例にして、等価交換の暴力性を資本の原理による暴力性に結びつけて考えなければならない。


鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

鋼の錬金術師(1) (ガンガンコミックス)

*1:もっとも、作中の錬金術においてこの合意が術者と誰の間で交わされているのかも論点かもしれない。さしあたっては神との交渉だろうか。