ポピュリズムとデモクラシー 〜「空虚なシニフィアン」としてのポピュリズム〜

 「ポピュリズム」という言葉がネガティブな意味として扱われて久しい。私たちは普段、ポピュリズムを「人気取り」や「大衆迎合主義」の政治として捉え、「ポピュリスト」政治家のことを、人気獲得のための聞こえのよい政策を、実現の根拠やその意義について詳しい議論を経ることなしに喧伝し、国民を愚弄し、扇動する政治家として認識している。日本ならば、田中角栄にはじまり、中曽根康弘小沢一郎小泉純一郎田中真紀子青島幸男田中康夫石原慎太郎橋下徹、海外ならば、フランスのニコラ・サルコジ、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニオーストリアイェルク・ハイダーなどが、いわゆるポピュリスト政治家として知られているだろう。

 彼らに対して使われるポピュリズムという言葉は、当然ネガティブな意味であり、時には民主主義的な決定プロセスを顧みずに独断専行で暴政を行う危険性が指摘される。しかし、こうしたポピュリズム批判は、一見常識的でありながら、実のところ民主主義そのものを否定してしまう危険性を秘めている。民主政治ならば、主権者である私たちが主体的に選んだ者が私たちの代表になる。その代表による統治を否定するのであれば、それは代表を選出した私たちの決定を、さらには民主主義というシステムを否定することになってしまうのではないか?民主主義の制度基盤が「人民主権」にあるならば、ポピュリストが登場し、ポピュリズムが生じるのは必然ではないのか?

 「一部の評論家は小泉を大衆迎合で危ないという。大衆を信じないでなぜ民主主義が成り立つのか」。2005年の郵政選挙小泉純一郎が演説にて語ったこの言葉を正面から否定できる者はいないだろう。ポピュリズム人民主権の制度化である民主主義のシステム構造上、必然的に生起する現象であるならば、私たちはこれに抗うことはできないのか?そもそもポピュリズムは民主主義といかなる関係を結ぶのか?ポピュリズムは、民主主義の徹底が生み出した必然的現象なのか?ポピュリズムは、民主主義の内部から誕生しながら、これを否定してしまう父殺しなのか?これらを考えなければ、頭ごなしのポピュリズム否定はできまい。

 近年のポピュリズムの語法に馴染みのある者ならば、ポピュリズムにはネオリベラリズム新自由主義が分かちがたく付随するものとして認識されているかもしれない、あるいはネオリベラリスト政治家が自身のマニフェストを達成するためにポピュリズム的手法を利用していると。確かに80年以降の自民党政権で長期にわたって政権を維持した中曽根、橋本、小泉はそれぞれ行政改革、民営化、規制緩和などの新自由主義的な政策を実現した点にその特徴がある。中曽根と同時期に新自由主義的政策を実行して高支持率を維持したマーガレット・サッチャーロナルド・レーガン、近年ではサルコジベルルスコーニ労働市場改革など同様の政策に取り組んだ。

 しかし歴史を振り返れば、ポピュリズムは必ずしもネオリベラリズムと一体だったわけではない。そもそもポピュリズムの起源を遡れば、その始原は、王朝とブルジョア支配に抗い主権在民を求めたフランス革命に求められる。フランス革命を理論的に支持したルソーは社会契約論で次のように述べた。

「人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに善いものであるだろう。しかし人々が徒党を組み、この部分的な結社が[政治体という]大きな結社を議席にするときには、こうした結社のそれぞれの意志は、結社の構成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意志となる。その場合には、成員の数だけの投票が行われるのではなく、結社の数だけの投票が行われるにすぎないのである。(『社会契約論』)

 ルソーは、ここで共同体における自由と平等を達成するためには、人民の意志を歪曲するような党派や利害関係者の介在を排除し、「善きもの」を担保する「一般意志」による意思決定がなされるべきであると主張している。こうして一般意志は民主主義と人民を接合する媒介項の役割を果たすことになる。

 ならばポピュリズムは、一般意志の政治的実現のプロセスから排除された者の声を代理表象する受け皿ということになるだろうか。こう仮定すると、多くのポピュリストが反エリート的、反民主主義的なイデオローグとして登場する理由も説明できる。「主権は共同体の成員にあり」と主張するルソーの一般意志論を受け入れるならば、彼らが平等に有するべき権利や自由が一部の人々によって寡占されるのは許されない。排除された者の声を引き受けたポピュリストの反逆によって、一般意志を貫徹しなければならない、と。

 ある場合は新自由主義として、別の場合には左派革命思想として現れる、捉えがたい思想的多様性こそ、ポピュリズム研究が常に直面してきた難題である。フランスの政治学者ピエール=アンドレ・タギエフは、ポピュリズムの正確な意味づけが不可能である曖昧な性質こそ、ここまで人口に膾炙するようになった理由であると指摘する。このような否定神学的なポピュリズムの性質を、エルンスト・ラクラウは『資本主義・ファシズムポピュリズム』と『ポピュリストの論理について』で、さらに詳細に論じている。同書にて、ラクラウはポピュリズムのことを「空虚なシニフィアン」と定義する。ソシュール言語学の説明は各自確認してもらうとして、ここでのシニフィアンとは、「イヌ」という記号や発音など、対象を「意味するもの」であるという程度に留めておこう。私たちは「イヌ」という存在を、シニフィアン(イヌを意味する記号)とシニフィエ(意味されるイヌの実態)を結びつけることで認識することができる。いわば空虚なシニフィアンとは、内実の伴わない形式上の入れ物であり、特定のイデオロギー的一貫性を持たない政治的媒介項ということになる。

 ならば空虚なシニフィアンとしてのポピュリズムは、どのように機能するのか?例えば、首相の靖国神社参拝を最大の選好政策(政治評価の最大基準)とする排外主義者と、郵政民営化を最大の選好政策とする新自由主義者は、一義的には接点を持たない。しかしあるリーダーが右派的価値観を重視する構造改革論者だった場合、彼らは共闘してそのリーダーを支持することになる。ラクラウは、ポピュリズム誕生は以下のような段階を踏むと述べる。1.既存の制度に包摂されない排除された勢力が結集する。2.彼ら複数の勢力が、シニフィアン(政治的シンボルやリーダー)と遭遇し、様々な要求がまとめ上げられる。このようにラクラウは、異なる人々を結合する「関係性」と「構成的機能」にポピュリズムの本質を見出す。ポピュリズムが右派・左派、リベラリズムリバタリアニズムなど、思想に関係なく多くの人々の支持を獲得できるのはこのためである。

 ラクラウの議論は、ポピュリズムイデオロギー的一貫性が存在せず、捉えがたい対象として政治学者を困惑させてきた難題に有力な手がかりを与えた。ポピュリズムが主権を求める人民の意志を媒介するならば、それは民主主義に内在した性質が発露したひとつの現象であるということになる。しかしまだまだ問題は解決していない。ポピュリズムと民主主義が分かちがたく結びついた概念であるとして、それならば尚のこと、ポピュリズムに抗う論拠は失われるのではないか?近年のポピュリスト政治家がネオリベラリズムに傾倒するのはなぜか?これは今後のさらなる検討課題としよう。



ポピュリズムを考える 民主主義への再入門 (NHKブックス)

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