大竹弘二「公開性の根源」:第一回 主権 vs 統治

 『atプラス』11号にて新連載としてはじまった大竹弘二「公開性の根源」がなかなか面白い。同論文で大竹は、近年急速に拡大する民主主義への疑念について、主権や統治といった概念を哲学的に再検討することによって改題しようと試みる。

 大竹の主張の要諦は、主権と統治はそもそも本質的に分離を余儀なくされるというものである。この主張は意外なものだ。主権が自らの意思で国民および領土を統治する権利であり、統治が主権に基づいた実効的支配であるという教科書的定義を採用するならば、両者は原理的に接合されており、分離不可能ではないかと思わせる。ならば両者が必然的に分離するのはなぜだろうか?

 これを理解するためには、「主権から直ちに統治が導かれる」、「統治は主権を根拠とする」という通俗的な前提を、改めて問い直す必要がある。大竹は次のような仮説を問いとして提示する。統治を可能にする「権力の空間のほうこそが、いわば主権の『可能性の条件』をなしているのではないか」と。すなわち、統治は確かに主権(=政治的決定を行うための不可侵のリソース)を根拠にして実行されるが、主権者が統治を実際に行うという事実そのもの(=権力の空間)の存在こそが、統治を生産・再強化するのではないか、ということである。

 この説明は近年の政治状況を思い浮かべれば、直感的に納得できる。最近の国内政治に私たちが抱く不満の一つは、選挙や世論調査にて示された民意が、代表たる政治家によって捨象・曲解されて統治がなされ、到底民意を反映しているとは思えない、というものである。一部の業界や地域に利益誘導を伴う公共投資を蔓延らせ、政党内外の抗争による政治的停滞を招いている事実は、国民の「主権」を仮託された「(仮)主権者」としての政治家が、主権者の民意とは離れた「統治」を実行し、それと同時に「統治」の事実によって「政治家支配」という「(仮)主権」を強化する。したがって主権と統治は、順接関係ではなく、両義性に満ちた相互依存関係ということになる。

 しかし両者の関係はこれだけでは終わらない。「統治は「王国」もしくは「栄光」という主権的権威による正統化の契機を不可欠とする。しかし統治はまた、つねにそこから自立して活動する可能性をも孕むのである」。主権が統治を根拠づけ、統治が主権を根拠づける相互依存状態にありながら、両者はある部分で断絶し、分離していく?これは何を意味するのだろう?

 大竹はアガンベンの政治哲学に踏み込むことで、この問題にアプローチしているが、連載初回の現段階では彼の説明はわかりにくい。ここでは大竹がその一例として挙げているカール・シュミットの「例外状態」を参照することで考えよう。シュミットの例外状態とは、旧秩序が非常事態に直面し、従来の法規範では対応できなくなった状態において、既存の規範を乗り越え決断を下す者が登場することによって、「本来の政治」が復権する状況を意味する。「旧規範」の外部に飛翔し、それを更新する者、規範外規範を制定する者の登場を待望したシュミットは、ヴァイマル共和国末期における権威主義的な体制を支持した。この例外状態において、統治者は主権の外部に存在するかのように、既存の状態(=主権に基づいて構成された法規範)の超克を試みる。このように統治が法規範=主権を超える過程が、先に述べた「分離」のイメージである。近代初期ではこのように、統治が主権を超える可能性が意識されていた。

 しかしそれ以降、主権と統治の齟齬という事実は、隠蔽される。「近代の政治的な考察が、法、一般意志、人民主権といったような空疎な抽象物の背後で道に迷い、あらゆる観点から見て決定的な問題、すなわち、統治および統治と主権の接合という問題を放置する事態(アガンベン『王国と栄光』)」が必然的に統治不能を帰結したならば、両者の関係をさらに深めて考える必要がある。近代初期の主権と統治の概念に遡って考察することが、「民主的合意を偽装しているが実際には反民主的であるような政治的公開性に幻惑」されず、「民主主義的な統治の再生にとって不可欠」であるとして、大竹は連載第一回の論を結んでいる。

 連載を最後まで読まずに意見するのは筋違いかもしれないが、この結びには疑問がある。大竹は、昨今の民主主義への疑念を、「民主的な意思決定と安定的な統治」の齟齬に求め、統治不能のためには重荷である民主主義を、ポピュリズム的なリーダーシップがスポイルすることによって、統治の危機を解消しようとする風潮を危惧している。しかし、現在起きている政治のポピュリズム化は、「民主主義的合意の偽装」とは必ずしも言い切れないのではないか。むしろ民意の徹底的なモニタリングの統治への反映、つまり民主主義の徹底が情報技術=メディア論的に可能になったことによってもたらされているかもしれない。ならば、「主権と統治」の関連は、ポピュリズムに象徴的な「リーダーシップ」の渇望の添え物ではなく、むしろ分かちがたく結びついたものとして考えられるのではないか。とりあえずの疑問点を提示したところで、民意・主権・統治の複雑な関係の詳細は今後の課題としよう。

[追記]
 再読したところ、大竹の議論が「「主権と統治」の関連を、ポピュリズムを外化して論じている」とするのは誤読であった。

 大竹の危惧は、「「民主的な意思決定と安定的な統治」の齟齬によって発生する民主主義への疑念が、主権と統治の複雑な関係に向き合うことなく、まるで逃げるかのようにポピュリズムが選択されていることにあるのかもしれない。主権と統治がその定義上、必然的に分離するならば、両者の齟齬や、それに伴う諦念は、そもそもデモクラシーのシステムに内在していたことになる。大竹は、主権と統治の両義的な関係に規定されるデモクラシーのデーモン=悪魔的側面を直視することなく、ポピュリズムがあたかも、デモクラシーシステムの外部であるかのように選択されている事実に対して疑義を唱えているのではないか。

 ならば、ポピュリズムを外部変数として扱っているとの批判は的外れということになる。とはいえ、ポピュリズムが民主主義システムの徹底による必然ではないかという疑問は依然として重要である。