高岡蒼甫の件について(3)「自分探し」の終焉と現実主義的ナショナリズム

 慎重に解釈しなければならないのは、高岡は典型的な右翼やナショナリストとは全く異なるという点だ。『バトル・ロワイアル』から『コンクリート』に至る俳優としてのキャリアに伴う、政治やマスコミ、ネット世論によって反権威的心象が成長し、『パッチギ!』インタビューの「誤報」によって反マスコミとナショナリズムが合流する。彼の発言に見られるこうしたイデオロギー性は、大きな物語への誘惑ではなく、全く彼自身の「俺って何?」という実存の問題の延長線上にたどり着いたゴールである。そのため高岡は自覚的にナショナリスティックな発言をするものの、自分自身が排外主義だと捉えられることにも慎重である。

「いや、もう皆に迷惑はかけらんね。 とにかくこの国はこのままじゃやばい。 それだけはマジで事実。 何にも大事な事は報道はされていない。 人権擁護法案なんて通ったらもうみんな自由じゃないし、今のまんまのうのうとなんて生きられないよきっと。 少し休ませてくださいな」(Twitter 7月29日 参照

という典型的な右派的発言と、

「日本は日本。韓国は韓国。 後は交流の機会に交流したらいいだけだと考えています。 純粋に日本人がまともな判断が出来る日がくる事を望んでいるだけです」(Twitter 7月28日 参照

というバランス感覚を同居させている二重性にこそ注目すべきなのである。

 これまで窪塚洋介高岡蒼甫という二人の人物を概括してきたが、両者には似ている部分と異なる部分があることがわかる。最大の類似点は、存在論的危機がナショナリズム止揚されたことである。窪塚は、「楽しくてくだらない日常のループ」からの離脱を、『GO』から『凶気の桜』への転向に顕著なナショナリズムの覚醒によって果たした。高岡も同様に、恵まれなかった少年期〜青年期の環境や、俳優としてのキャリアの苦境を、『パッチギ!』批判から『金閣寺』に至る「困難の克服」として乗り越えようと試みた。

 しかし、窪塚の『GO』から『凶気の桜』への転向を、高岡の『パッチギ!』から『金閣寺』の転向と類推させたくなる欲望は抑制されなければならない。それは『狂気の桜』が窪塚による積極的な企画提案、主演という主体的コミットメントに支えられていた一方で、高岡が『金閣寺』に出演したのは全くの偶然であるという客観的事実によるものではない。窪塚にとっての『凶気の桜』におけるナショナリスティックなコミットメントに比べて、『金閣寺』という作品は、それが三島由紀夫原作であったとしても、ナショナリズムというよりは美的世界の描出として読解される作品である点、さらに、高岡自身がナショナリズムというよりは苦境の克服という「個人的事情」、いわば実存の問題として本作を受け止めている点に、その理由が求められる。

 窪塚が「実存ーナショナリズムースピリチュアル」を一体化させ、精神世界の追求に耽溺しているのに対して、高岡の「実存ーナショナリズムーアンチ・マスコミ」は遥かに客観的で冷静なものである。79年生まれの窪塚が、団塊ジュニア世代・ポスト団塊ジュニア世代に典型的な、「自分探し」の影響を色濃く残した、「ゆるくて熱い」ロマン主義ナショナリズムであるならば、82年生まれの高岡は「呼称なき世代」に固有の特徴が確認できる。そこでは精神論的な「自分探し」は影を潜め、実社会でいかにして生存するかという現実性を重視しつつも、政治・マスコミといった権力の不信感と敵意をむき出しにした「現実主義的ナショナリズム」が追求されている。

 もちろん彼らのこうした傾向を社会一般に敷衍し安易な世代論に短絡させる読み方には慎重になるべきだし、さらなる考察が求められる。すなわち彼らの発言が、社会的にどのように受容されたのかという事実。中でも高岡が繰り返し言及したような、アンチ・マスコミ、嫌韓のナショナリスティックな言説と、彼自身の境遇が、インターネット上で広く受け入れられ、支持されている事実に向かい合う必要がある。今回、ネットをはじめとする世論のリアクション、フジテレビと海外資本の関係、放送業界の政治学には、意図的に言及しなかった。それはこうしたさまざまな要因を一旦括弧にくくる(外部化する)ことで、高岡の存在論的問題、実存の問題に肉薄するためである。マクロで客観的な分析は、こうした個別事例の分析がなければ片手落ちである。個人が客観性を自認する評論めいた「つぶやき」の数々が、単なるノイズ、あるいは「親韓/嫌韓」「親マスコミ/反マスコミ」といった、レッテル貼りや党派性に還元され、不毛な議論ばかりが続くネット言論を考えてみればよい。必要とされるのは、個別事例や一人ひとりに実直に向き合い、気長に悩みぬくプロセスなのである。