文化多元主義と西欧中心主義

 以前のエントリー「冬季オリンピックと雪なしオリンピックー多文化主義の論理的陥穽」にて、多文化主義が、その構造上抱える論理的問題点を指摘した。あらゆる文化の多様性を尊重し、相互承認に基づいた共存を目指す多文化主義(multiculturalism)は、「すべての民族は同様に尊重されなければならない。それゆえに『われわれ』も同じく尊重されなければならない」という特殊性の過度な尊重すら許容してしまい、結果的にナショナリズムに転化する、という論旨である。

 歴史的にこうした多元主義は、類似したある思想を批判することで登場した。その思想とは文化多元主義(cultural pluralism)である。文化多元主義は、多様なライフスタイルの共存を承認し、推奨するイデオロギーであるという点では、多文化主義と似ている。しかし、主としてアメリカで、20世紀の前半から中盤に唱えられていたこの主張は、多文化尊重の条件として近代主義を容認することを求める点で、多文化主義と異なる。

 理解を助けるために補助線を引くことにしよう。それは文化多元主義の政治経済学的な理論化である世界システム論である。イマニュエル・ウォーラーステイン等によって唱えられたこの理論は、国民国家の集合である世界システムに、経済的な分業に規定された階級的不平等が内包されていることを指摘した。つまり世界システムの中に「中核/周辺」の二極構造があり、周辺の諸国は中核を構成する諸国によって搾取されており、どの国家が中核や周辺を構成するかは時代とともに遷移しても、搾取ー被搾取の関係は普遍的構造として維持されているということである。

 20世紀の歴史に照らせば、アメリカを含む西ヨーロッパ諸国が世界システムの中核に、旧植民地諸国が周辺に相当するだろう。ここで注意するべきは、世界システム論が主張するような搾取関係が明らかになるには、資本の活動範囲が旧宗主国の国民経済の範囲を越えて拡張したとしても、最終的には旧宗主国に根をおろしていなければならないということである。資本は、最終的には、中核の旧宗主国の利益になるように振る舞う必要がある。

 文化多元主義をこうした世界システム論の具体的表現として解釈すればよい。文化多元主義は、多様な文化やライフスタイルの平等な共存を支持する普遍主義の立場に立脚している。しかしそれは、国民国家に形式的には平等に与えられているものの、中核国による周辺国の実質的な支配と搾取を温存しているという世界システム論の批判と類推的に、西欧という特殊な文化の覇権を前提として成立している。文化多元主義の普遍主義的な外観には、西欧中心主義=近代主義が隠されているというわけだ。

 この仮説は、文化多元主義が20世紀の最大の中核国であるアメリカで提唱されたことに示唆的である。それは、ケネディ政権の首相補佐官として数々の改革を実践したアーサー・シュレーディンガー二世の多文化主義批判と文化多元主義擁護に確認でき、なによりネオコンの主張にその最も色濃い影響を読み解くことができるためである。911以後のアメリカ政治を知るものには、ネオコンは「反人道主義的で現実主義的な単独行動主義」というイメージが強いかもしれないが、それは一面的な理解である。ブッシュ政権に特徴的なネオコン思想の源流は、「ニューヨーク知識人」と呼ばれた、1930年代に反スターリン主義左翼として活動したトロツキストのグループである。マックス・シャハトマン等、トロツキズム社会主義労働者党から分裂し、アメリカ労働者党を結成した彼らは、第二次世界大戦後、民主党に合流し、党内左派として労働組合ユダヤ人ネットワークと関係を結び政治的影響力を拡大していった。

 反スターリン主義左派である彼らは、1950年代から1960年代初頭の時期に公民権運動を強く支持していたものの、ジョンソン政権の主張する「偉大な社会」に幻滅を感じ、1960年代のカウンターカルチャーベトナム反戦運動新左翼運動が内包する反米主義に次第に反発するようになった。50年代中盤まで、アメリカの右派思想は主として、伝統主義、リバタリアニズム反共主義の3つの潮流に分化していたが、これが雑誌「ナショナルレビュー」を基点として反共主義として統合された。1964年の共和党大統領候補バリー・ゴールドウォーターによる「自由を守るための急進主義は、いかなる意味においても悪徳ではない」という演説には、自由を保守する近代主義と、文化的多様性を尊重する多元主義が、文化多元主義として合流している事実を明瞭に確認することができる。

 こうした思想史的な経緯が踏まえられず、ネオコン=排外主義のイメージが定着したのは、公民権運動以降のリベラルな再分配政策が、モラルハザードやセキュリティー意識を助長するものとして80年代以降生じた保守主義へのバックラッシュを、911以後の国内不安により、ブッシュ政権が外交と軍事という国外政策に、私的に投射したためである。

 それでは、こうしたブッシュ的ネオコンの誤謬が指摘されるならば、文化多元主義の具体化した思想である元来のネオコンは正当化されるだろうか。そうはならないだろう。先に世界システム論を引いて論じたように、文化多元主義は、搾取するべき周辺を必要とする西欧中心主義的思想であり、本来的に周辺国を排除するような理論として成立しているためである。それがあらゆる文化の徹底した平等を要求する多文化主義が文化多元主義の内部から生まれた理由でもあった。

 まとめよう。文化多元主義近代主義を前提とした多文化尊重であるがゆえに、西欧中心主義の枠組を解消することができず、多文化主義がその枠組を解消したゆえに、論理必然的にナショナリズムに頽落する可能性を秘めていることを前回と今回で指摘した。文化多元主義多文化主義の、「あちらが立てばこちらが立たず」というウロボロスの蛇のごとき関係は、多文化擁護が特定文化=西欧やネーションにいとも簡単に転化するという理論的難題を私たちに突きつける。ならば他国や他文化の共存を論理的に擁護することはいかにして可能なのか。文化的寛容とナショナリズムはいかなる関係を取り結ぶのか、さらなる考察が求められる。