歴史を語ることー柳田國男の「社会科教科書」

 震災や原発への対処に明瞭に見て取れる菅政権の政治的決定力の欠如や「ポスト菅」を争う民主党内外の党派争いは、国民の間に「誰が総理になっても変わらない」と頻繁に語られるようなニヒリズムを助長し、政治的無関心が蔓延している。アメリカの著名な社会学者デイヴィッド・リースマンは政治的無関心を、「国民が政治を他人ごとのように捉え無関心になる状態」と定義し、みずからの生活圏とマクロな政治の距離の大きさに参政の意志を喪失する事態を招くと指摘した。

 もちろん菅内閣のみならず、近年の自民・民主をはじめとする政権の「政治的不能」は誰の目にも明らかである。しかし社会学的知見に照らせば近年のニヒリズムの原因を政治の無力という単一の原因として求めるのは間違いである。ニヒリズムは一言でいってしまえば、社会で広範に受容されている至高の価値が無価値になり、目的や真理を失った状態である。「目的や真理」とはある場合には「形而上学的真理」や「大きな物語」があてはめられる。「大きな物語の喪失以降、数多くの小さな物語が並立するポストモダン社会になった」というのは人文科学的なクリシェであるゆえその乱用は慎重になるべきだが、「価値観が多様化した」とローカライズしてしまえば、現代日本が「大きな物語」を喪失したポストモダン社会に入ったと断じても間違いないだろう。

 80年代終盤までの高度成長を経て高度消費社会、高度情報化社会が実現し、その一方で核家族化と郊外化の進展により共同体の紐帯が消滅した現代社会では、すべての人々が国家・共同体などの様々なマクロ・ユニットから放り出され、右派/左派、勝ち組/負け組、都市/地方、男性/女性、モテ/非モテなど無数の「断層」によって分断されることで、些細な趣味の共有によって儚げな関係性を維持するに留まる。こうした社会で人びとは無数の小集団に分割され、集団間のコミュニケーションは試みられず、公的議論など行われる余地がない。ここにて現代的な「政治的無関心」が現実のものとなる。

 96年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」による一連の社会運動は、ポストモダン社会による「大きな物語」を復活させるための試みと捉えられる。扶桑社出版の『新しい歴史教科書』はもちろん、「つくる会」の主要メンバーであった西尾幹二の『国民の歴史』や小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』は、ポストモダン社会における喪失した社会性すら、太平洋戦争、あるいはそれよりはるかに遡る古代日本から連綿と続く日本の歴史の延長線上にあることを、独自の「物語」的視点から編纂したものである。「私たちのつくる教科書は、世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。私たちの祖先の活躍に心躍らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です」(「つくる会」趣意書)という記述には、歴史を独自の視点から語る「選び取られた物語」であることを、臆面なく主張する彼らの本音が見て取れる。彼らは物語喪失の時代に、新たな物語を定着させることで、液状化する社会の維持を試みた。

 ところで彼らとはまったく異なる立場から、生きる術としての社会性を教育によって子どもたちに会得させようと試行錯誤した人物がいる。民俗学創始者として名高い柳田國男である。柳田が戦後まもなく社会科教育に腐心し、実際に教科書づくりに取り組んでいたことはあまり知られていない。柳田は昭和22年、成城学園初等科の教師たちとの懇談「社会科の新構想」をきっかけに社会教育へと傾斜し、設立されたばかりの民俗学研究所の民俗学者たちを総動員して小学校向け社会科教科書『日本の社会』9冊、および中学生向けの『社会』2冊を編集した。後者は検定不合格になったが、前者は昭和28年から37年まで一部の小学校で実際に採択された。

 なぜ民俗学の第一人者であった柳田が、初等教育向けの社会科教科書の制作に熱心だったのだろうか。その理由の一つは、教科書制作が彼がその生涯をかけた民俗学の延命策であったためだろう。民俗学は、近代化が十分に浸透していない地域での風俗や習慣、伝説、民話を実地調査によって集積することで、その地域に住まう人によって伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を説明する学問である。

 こうした民俗学的まなざしは、しかし、明治以降の近代化に伴って獲得されたことは指摘しておくべきだろう。そもそも柳田は東京帝国大学で農政学を学び、卒業後に農商務省で官僚を務めた「エリート」である。彼は新渡戸稲造が主催する村落研究会にて関心を持ったことから、民俗学の第一歩を踏み出している。周知のとおり、明治以降の近代化を実現するために、為政者は戯画的とも思えるような強引な手続きをおこなった。超越者としての天皇の措定についてはすでに様々な研究によって明らかになっているのでここでは詳述しない(注1)。民俗学という「近代の学問」もその一貫であり、農村地域の風習を「日本の伝統」として再び「発見」することで、均一に広がるネーション=国民国家の枠内に組み込み、その形成を助ける役割を果たした。こうして国家の近代化のために一役買った民俗学が、戦後その立場を危うくすることになったのは明らかである。柳田はこう記す。

「社会科教育の前途を考えていくと、人が世に生きるために必要な知識の、現在は特に整理せられず、総合統一の甚だしく欠けていることが、まず大きな苦労の種である。いわゆる鋳型にはめる教育は憎まれてきたけれども。もとはともかくもある鋳型があった。こうしてまたはめ込みの技能も、実は相応に進んでいたのである。しかるに一朝にしてその鋳型は壊れ、急いで代わりのものの考案に着手したが、それすらまだひとつも出来上がっていない」(柳田『民俗学辞典』序文)

 ここで柳田みずから民俗学を「一朝」にしてできた「鋳型」であり、それは敗戦によって「一朝にして」「壊れ」つつあることが告白されている。

 しかしこうした「国策的」側面を指摘したところで、柳田民俗学の成果が否定されるべきではない。彼の社会科教科書を読んでみると、その構成は極めて民俗学的であることがわかる。小学1年生の単元は「学校のまわり」の観察から始まり、5年生でようやく「日本という國』に至るものの、6年生の最後には「人の一生」で終わる。こうした「私」の生活領域から「世間」を通過し、「国家」など広く抽象的で社会的な対象に及ぶまで順次拡大していく教科書内容は、柳田による民俗学的成果をそっくり置き換えたものである。多くの研究者の評価によると、柳田社会科教科書の要諦は、彼独自の術語である「世間」に求められているらしい。柳田は社会科教育を世間教育に言い換えてすらいる。「世間」とは、「私」と「社会」や「国家」の中間に位置し、直接的な対人関係と抽象的で普遍的な人間関係の間の曖昧な領域を指す語であり、柳田は世間教育=社会科教育の徹底によって、「私/国家」関係が「私ー世間ー国家」関係として橋渡しされ、「国民」としての社会性・歴史性を獲得することができると考えた。

 こうした「私」と「歴史」のつながりが、象徴する概念が「史心」である。記録で柳田はこう述べている。

「国民全部に史心をもたせることが歴史教育の主たることです。(中略)ものには歴史がある。現在あるものすべてに原因のないものはない。現在と過去がすっかり同じものは一つもない。昔のものは今は変わっておるが、変わるべき理由があって変わったのだ。それを子どもに聴かれては答え、聴かれては答えしていく」(柳田「社会科の新構想」)

 評論家の大塚英志によれば、柳田のいう史心とは「現在を批評していく技術としての歴史認識」とされる(大塚『戦後民主主義リハビリテーション』)。歴史教育の使命とは「生徒達が大きくなった後までも、事あるごとに判断の基礎を正しい過去の知識に求めるような気持ち」を持たせることにある。さらに柳田はこうも述べた。

「今までのいわゆる軍国主義を、悪く言わねばならぬ理由はいくつでもあるだろうが、ただ我々の挙国一致をもって、ことごとく言論抑圧の結果なりと、見ることだけは事実に反している。ひとり利害の念にほだされやすかった社会人だけではなく、純情にして死をもただ辞せざるを得ない若い人たちまでが、口をそろえてただ一種の言葉だけを唱え続けていたのは(中略)いわばこれ以外の思い、言い方を修練するような機会を与えられなかったのである。」(柳田「喜談日録)

 柳田は「国」に対峙し、時には否ということばを使う修練をもたなかったことが戦前の教育の欠点だと主張する。他者に対峙し、自らの「心」を「物言い」し伝えるための具体的な「力」を子供たちに技術として伝えよ、という主張である。

 話を最初に戻そう。ポストモダン社会である現代において、歴史を語るとはどういうことか。それは「つくる会」的な「大きな物語」の復古によって共同体の紐帯が弱体化した現代に、新たな物語を与えるアイロニカルな試みとして現れるか、それとも柳田のように、国策学問という汚辱の延命策であったとしても、世間を個人と国家の間に挟むことで、社会や歴史に接近する言語を獲得するための不断の努力として現れるか。わたしは前者よりも後者にこそ、現代社会における新たな「公論」の可能性を感じる。「自虐史観」や「戦後民主主義」といったテンプレートを無批判に反復することで、「大きな物語」を安易に拝受し、自己目的的な「癒し」の言語に甘える被害者意識ではなく、日常生活と政治を接合する「世間のおしゃべり」こそが「相対化の時代」における新たな公共性につながるだろう。



(1)一例として、多木浩二天皇の肖像』をあげれば十分だろう。「御真影」と呼ばれた明治天皇肖像画天皇と同一視され、その取扱いをめぐって一連の儀式が生み出され、天皇を中心とする近代国家を形成する装置の役割を果たした。御真影はすべて下から願い出るかたちで「下付」され、受け取る行為が民意に基づくものという形式で行われた。たとえば地方の学校に御真影が下付される場合、宮内省→文部省→県→郡→学校→生徒といった、明確に序列化された階層ができあがり、天皇を中心とする均一で均質な情報空間が形成され、ネーションの屹立を手助けした。