母と娘のコンプレックス(2)『八日目の蝉』

(承前)

 さて、ようやく『八日目の蝉』に入る。本作も前二作と同様に母と娘の関係を徹底追求した作品である。原作者の角田光代はロイターのインタビューにて、本作執筆の動機についてこう語っている。「(最近の子供虐待の新聞報道には)実の母親なのになぜ虐待ができるのかという論調が非常に多いが、そこで父性は問われないのだろうかとか、母性というものをあまりにも当たり前に女性に押し付けているのではないか。そのことが女性たちを苦しめているのではないか」。角田は母による子供虐待批判に透けて見える母性の自明視に意義を唱える。母から子供への愛情は純粋な感情であり、自明なものであるというステレオタイプを俎上に上げるのだ。しかしその表現として愛の過剰、すなわち先の作品に見たような母から娘への暴力的介入を描くのが普通かと思われるが、角田はこの手法をとらない。それははるかに技巧的な手法で扱われる。

 『八日目の蝉』のあらすじを以下のサイトを参考に、一部修正してまとめた。

 1995年10月東京地裁。秋山丈博(田中哲司)、恵津子(森口瑤子)夫婦の間に生まれた生後6カ月の恵理菜を誘拐、4年間逃亡した野々宮希和子(永作博美)への論告求刑が告げられた。希和子は静かにこう述べた。「四年間、子育ての喜びを味わわせてもらったことを感謝します」と。会社の上司で妻帯者の丈博を愛した希和子は彼の子供を身ごもるが、産むことは叶えられなかった。そんな時、丈博から恵津子との子供のこと知らされた希和子は、夫婦の留守宅に忍び込み、赤ん坊を抱かかえて雨の中を飛び出す。希和子は子供を薫と名づけ、各地を逃避行する。警察が追いかけていることを知った希和子は、公園で天然水や自然食を販売していた謎の団体・エンジェルホームに身を隠すことを決意する。エンジェルホームは域内に女性しか存在しない静謐な雰囲気の宗教団体である。そのなかで女性たちは「エンゼルさん」と呼ばれる女性教祖(余貴美子)のもとにエレミアやルツやサライといった固有名が与えられる。希和子と薫はこの団体で静かな生活を送るが、オウム真理教事件によって宗教団体への圧力が高まり、エンジェルホームにも警察の捜査が入るとの噂が流れる。恐れた希和子は薫をつれて団体を抜け出し、小豆島に流れ着きそこでひと時の安らぎを得る。楽園のようなこの地で、薫に様々な美しいものを見せたいと願う希和子だったが、捜査の手は迫り、福田港のフェリー乗り場で4年間の逃避行は終わりを迎えた。

 17年後、薫こと秋山恵理菜(井上真央)は21歳の大学生となっていた。恵里菜は4歳で初めて実の両親に会い、私たちこそが正真正銘の家族だ、と告げられるものの実感が持てずにいる。世間からはいわれのないない中傷を受け、無神経に事件が書きたてられる中、家族は疲弊していた。誘拐した希和子を憎むことで過去の事実を心の奥底に押しとどめ、誰にも心を開かないまま、恵理菜は家を出て一人暮らしを始める。そんな中、岸田孝史(劇団ひとり)に出会い、彼と恋愛関係になる。だがある日、自分が妊娠していることに気づいた恵理菜の心は揺れる。岸田は家庭のある男だった。そんな頃、恵理菜のバイト先にルポライターの安藤千草(小池栄子)が訪ねてくる。千草はあの誘拐事件を本にしたいという。恵理菜を度々訪れ、親しげに生活に立ち入ってくる千草。だが、恵理菜は放っておいて欲しいと思いながらも、なぜか千草を拒絶することが出来なかった。千草は自分もまた、かつてエンジェルホームで生活を送っていた女性であり、当時二人は友人同士だったと話す。千草に励まされながら、恵理菜は今までの人生を確認するように、希和子との逃亡生活を辿る旅に出る。そして最終地、小豆島に降り立った時、恵理菜は記憶の底にあったある事実を思い出す。

(参考)
http://blog.livedoor.jp/papikosachimama/archives/51829498.html#

 大まかなあらすじはこうなっている。希和子から「取り戻され」本来の家族関係に戻った恵理菜=薫は、両親との良好な関係を築けずにいる。恵理菜は幼少期のもっとも濃密な時間を希和子と過ごしたゆえに、実の母親である恵津子の愛を心の底から受け入れることができず、ぎくしゃくした親子関係が続く。象徴的なのは小説に登場するこんなシーンだ。小学校から帰宅した恵理菜が恵津子に「あんな、今日学校でな、テストがあったんよ」と報告すると、恵津子は「あのね今日学校でテストがあったの、でしょ」と恵理菜の言葉遣いに怒る。娘の言動の端々に残る希和子の影響に対する恵津子の怒りは恵理菜が成長するまで続き、彼女は「なぜあなたは私を母と認めないの」「なぜあなたは私の娘として愛されないの」と絶叫する。そうした環境で育った恵理菜は、母親を素直に愛することができないこと、さらには周囲の人間の誰も愛することができない原因が希和子との過去にあると信じ、彼女を憎むようになっている。

 したがって本作の中心的課題はここにある。恵理菜の愛の不全感は希和子との過去にある。希和子は憎むべき相手であるにも関わらず、同時に恵理菜=薫にとってもっとも濃密だった時間、すべての原体験が希和子と過ごした時間であるという矛盾に。本作のタイトル『八日目の蝉』とは、七日目の死が宿命づけられた蝉たちのうちでただ一人、八日目に生き残った物を指す言葉である。恵理菜=薫にとって、人生でもっとも輝いていた時間の七日間は希和子と過ごした時間=薫の時間に相当する。一方でなんのために生きているのかわからない空虚な八日目が恵理菜の時間に相当する。

 憎むべき希和子との過去を抑圧し、幽霊のように「八日目」を過ごしていた恵理菜だったが、千草と出会うことによって次第に過去と向かい合うことはすでに述べた。二人は希和子との逃亡生活の後を辿る旅に出て、最後に小豆島を訪れる。抑圧していた「母親」希和子との過去を開放した恵理菜は泣き崩れる。自分が本当はこの島を愛していたこと、希和子を愛していたことを告白する。

 先のモデルに照らせばどうだろう。『八日目の蝉』は単純な母と娘の対立と関係回復の物語なのだろうか。それは全く違うだろう。角田は徹底して母性=母の概念を相対化している。いかに恵理菜=薫が希和子を母親として認めようとも、希和子が実の母親ではない事実、希和子が犯罪者である事実は揺るぎない。純粋な母と子どもの愛情が客観的な事実に優先する安易な結末を角田は拒否しているのだ。したがって本作を典型的な母性回帰の作品と評価するのは間違いである。

 角田は原作を書くにあたって、薫と希和子を最後に再会させるかどうかでエンディングを悩んだという。そして二人を再会させないことを選んだ。ここにヒントがある。母と娘を切り離すこと。母親の愛情の確認という過去の肯定と同時に、その母と決別すること。恵理菜がこれを選択したことがなにより重要である。恵理菜は薫の名前=過去の記憶を受け入れると同時にこれを乗り越える決意を下した。ここにて恵理菜=薫は母性の無限循環から解放され、一人の女性として人格を定率したことになる。その決意が最も感動的に表現されているのが映画のラストシーンである。

 小豆島にて希和子との過去を受け入れた恵理菜は千草にこう語りかけ、おなかの子供を産む決意をする。「まだ会っていないこの子を、もう私凄く愛している」。純粋な関係にない男との子供を妊娠した点では、希和子と恵理菜は全く同じ運命を辿っている。しかし、恵理菜の決断は希和子との決別をそれと同時に示唆しているのだ。