天皇制の歴史ー天皇萌えの歴史的起源

 日本の天皇制の最大の特徴は「万世一系」という語に集約されている(注1)。万世一系とは、古代から現代まで連綿と一つの系統が継続してきたことを意味する言葉である。天皇という地位は、初代神武天皇から今上天皇まで断絶することなく世襲されてきた(とされている)ことが、「万世一系天皇制」に象徴されており、天皇制の存立を支える中心的概念として認められている。初代神武天皇は諸説あるものの紀元前600年頃に在位したとされており、このほとんど「伝説的期間」も計算に入れれば天皇制は2600年の歴史をもつことになる(注2)。この驚くべき長さは他国には例をみないものである。歴史上、世界には様々な王権が存在したが、日本の天皇制ほど継続した王権はどこにも存在しない。この歴史性は同時に、天皇制には王朝の概念が存在しないことを意味する。たとえばルイ14世ブルボン朝の王、劉邦漢王朝の王であり、現在のイギリス女王エリザベス2世ウィンザー朝の女王である。王朝が不在であるということは、単一の王朝=王の血統を打倒し、新王朝を創設することは、定義上起こらないということである。どうして天皇制は世界的にも例外的に長い継続性を保つことができたのだろうか。

 常識的には、世襲の連続性の背景として血統に関する強固なイデオロギーが存在していたことが考えられる。天皇制の歴史的根拠を血統の存続に求める論理は、日本の右翼はもちろん、証明のためのDNA鑑定を求める近年の天皇主義者にも確認できる。しかし、こうした血統論は誤っている。中世史学者の本郷和人は「そこには『高貴な血を絶やしてはいけない』という断固とした積極的な思想があったのでしょうか。判断は難しいところです。私はそれなりに皇室の史料に触れ、天皇の活動にも気を配っているつもりですが、そうした思想の存在を感得したことがありません。それが端的に表明されているような明証なり、事実に逢着したこともありません」(本郷『天皇はなぜ万世一系なのか』)と述べ、天皇制のみならず日本において、血統という概念は元来希薄であったことを主張する。日本の伝統的な農村社会学に照らせば、いわゆる「イエ」概念は血統とは無縁のものである。例えば「養子」という制度を考えてみればよい。イエの当主は父親から息子へと継承されるが、子どもに恵まれなかった場合日本では娘に婿を取る(娘婿)ことが頻繁に行われた。娘も息子もいない場合には、血縁のない息子(娘)を養子として迎え入れた上で、嫁(婿)と結婚すればよい。こうして日本的イエ概念は原則的に血統には縛られず、ヒトの移転によるネットワークの形成によって存続した側面がある。江戸時代の旗本5000人への調査では、23%が養子であり(新保博『日本経済史の新しい方法』)、18世紀の加賀前田家の家中では、養子継承が36%であった(坪内玲子『継承の人口社会学:誰が「家」を継いだか』)。このように日本の「イエ」は伝統的に血統を軽視していたのであり、これは血統重視の中国的「イエ」概念とは対照的である。

 血統が否定されるならば、天皇制の歴史を支えた正当性の根拠はなんだろうか。問題を掘り下げるために、天皇制の歴史を振り返ってみよう。一部の例外を除いて伝統的に日本では、天皇は実質的な権力者によって権力の正当性を示すために担がれてきた経緯がある(注3)。平安時代、政治の実権を握っていたのは天皇外戚関係にあった摂政・関白である。藤原不比等による権力の掌握以降、この地位は藤原北家によって世襲的に継承された。ここで天皇は実質的な政治的権力を握っている藤原氏によって、統治が正当であることを内外に示す根拠として機能した。承久の乱以後の武家政権の成立、将軍と朝廷(天皇)の関係も同様である。源氏以後の実質的統治を担った北条氏は、承久の乱で朝廷軍に勝利し、首謀者を罰したものの、天皇家そのものを根絶せずその血統を温存した。江戸時代は期間が長く評価は慎重になるべきだが、それでも天皇の石高はわずかであり、政治的実権を有することはなかった。天皇には茶道・俳諧などの文化活動や、年号の決定や将軍などの役職の任命など形式的にその権威を示すに留まっていた。

 歴史的経緯に関してはさらに詳細に論じられるべきだが、ここでは差し当たって、天皇が実際に政治権力を握ったのは日本史上ほとんど存在せず、実質的権力者がその統治の正当性を示すために類縁関係や主従関係にあった点を確認しておきたい。言い換えれば天皇とは権力そのものではなく、権力の正当性の源泉として、まさに「錦の御旗」として利用されてきたのである。天皇への忠誠心が表面的で形式的であった歴史的事実を、片山は天皇制の存立機制=信仰の類型として「尊皇」をあげることで説明する。尊皇とは「権力は即ち実質にありしと大則は認めず、ただ外面的に、皇室に対し、恭敬の真をつく」し、「日本天子様をただに御伊勢様の大神主の如く、徒らに尊敬」する立場である(片山杜秀『近代日本の右翼思想』)。同じ立場を松本は「天皇の『意思』は、つねに何ものかの意思によって形つくられねばならない」と指摘した(松本三之助「天皇制法思想」『天皇制国家と政治思想』)。天皇の下位にいる従属者たちが、天皇の意思や欲望が何であるかを忖度して想像し、天皇自身の意志から離れたかたちその意志が代弁される。これは太平洋戦争期の御前会議がいかに形式的であったかを考えれば十分だろう。天皇、総理大臣、軍司令部を中心として構成されたこの会議は、法制上の根拠はなく、閣僚による天皇への進言と納得によって天皇の意志表示として解され、後の閣議をもって正式決定される忖度政治の場であった。

 こうした歴史的経緯を踏まえれば、天皇制の存続の理由として次の仮説が考えられる。天皇は歴史的に常に「ひ弱」だったからではないか。その都度の歴史における実質的権力者の支配の正当性の根拠として脇に添えられた「ひ弱な花」であったという事実。それゆえに統治者、統治者を打倒する革命者の双方にとって利用価値のある存在だったことが、天皇制が現在に至るまで命脈を保ってきた根本的理由ではないか、と。藤原氏、北条氏、徳川家ら支配者が、何らかの天命や使命を果たすことをその根拠として正当性を保っていたとするならば、その目的が達成された時点で彼らは支配の正当性を喪失する。しかし天皇はなんらかの使命を達成すべく歴史的に存在したわけではない。支配者がその権威を誇示するために生きながらえてきた空虚な存在だからである。支配の正当性はその目的を達成したとたんに、権威は窮地に立たされるが、逆に考えれば目的が最初から存在しなければ権威は永久に喪失することはない。歴史的に長年継続してきたという事実性が、さらなる継続の正当性を与えるという究極の自己言及がここにて成立し、「万世一系」の天皇制の存在をこれまで支えてきたのである。

 こう考えると、天皇制が断絶していない事実、現在まで継続してきた事実が、現在時・未来時への継続を正当化する天皇観には、時制が存在しないことがわかる。先に論じたように、継続の事実性が継続を正当化する自己言及的な天皇制は、その構成上終わりがなく、永続可能な構造をとっている。要素間の関係性の分析による法則=構造の把握、時制なしの「万世一系」の天皇制は、構造主義的分析に親和的である。

 こうした天皇制の時制なしの構成、構造主義的な構成は、現代日本で散見される天皇論・ナショナリスティックな言説と相性が良い。95年を結節点として90年代後半から屹立したナショナリズムは、歴史性・物語性にこだわることなく、日の丸や君が代、ニッポンのアイコンを純朴に称揚する「J-ナショナリズム」「ぷちナショナリズム」であることは、頻繁に指摘される。サッカーワールドカップにて顔に日の丸をタギングする若者に象徴的なファッション的でポップなナショナリズムは、しかし90年代以前から本来的なナショナリストによっても共有されていた。その一例として西尾幹二の『国民の歴史』があげられる。「歴史は物語である」とする「つくる会」の論者による代表的著作である本書は、天皇ないし神話に関する記述の多くを構造主義的な文化人類学の影響下にある神話学の見解に負って書かれている。文化人類学は神話やフォークロアなどのテクストを共時的に分析する学問分野であり、時制抜きの非歴史的領域に属する思考の技術である。こうした天皇制観に対しては、次のような批判が考えられる。天皇制の歴史そのもの、さらには天皇制観が、こうした構造主義的な非歴史的領域にその根拠をもつならば、それは同時に天皇制の歴史を否定してしまう可能性を含んでいるのではないか。『国民の歴史』ではこの致命的な問題を回避するかのように、天皇についての記述は最小限に抑えられている。それは古代の神話の時代における饒舌さとは実に対照的である。さらに2000年5月15日、当時総理大臣の森喜朗によるいわゆる「神の国発言」に対する、同年の「諸君」8月号での中川八洋の以下のような弁護は象徴的である。「皇室の是非を論じることはそれが1500年もの歴史を持つ以上、許されません。祖先の叡智への冒涜でもあるし、バーク的に言えば、皇室は「時効の国体」であるからです。伝統的政治制度について、「時効」であるからして、その改革を排斥するのが保守主義の哲学なのです」(中川八洋八木秀次渡部昇一保守主義の大道」『諸君』2000年8月号)。中川の発言が単純に政治思想的に間違っていることはここでは詳述しない。しかし西尾や中川を代表とする今日のナショナリズムが、文化人類学フォークロアの無時間性を根拠とするならば、それは実際のところ彼らの歴史からの逃亡を意味するのではないか。

 天皇制の無時間性が天皇制そのものを否定してしまうパラドックスを認めた上で、独自のアイロニカルな哲学で展開したのが三島由紀夫である。三島は『文化防衛論』にて、「コピーとしての天皇」を主張した。民主主義の言論の自由によって可能になった「空間的連続性」(横軸)の成立によって価値の多様性は認められたが、こうした共時性のみでは市民は堕落してしまう。それを解消するために三島は「時間的連続性」(縦軸)として天皇をおく。天皇によって詠まれた和歌、特攻隊の遺書、禅や軍隊の作法などのモノ・行動様式に天皇の痕跡は残されており、「オリジナルとコピーの弁別」が喪失したものとして天皇の刻印が歴史的に刻まれてきたとするのが三島の天皇論である。

持統帝以来五十九回に亙る二十年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、オリジナルはその時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。(三島『文化防衛論』)

 三島のナショナリズムについては改めて論じるべきだろうが、ここでは歴史の喪失を埋め合わせるための方便として天皇を利用する、彼のアイロニカルなポジションを強調しておきたい。三島にその端緒が見られ、90年代後半から顕在化した日本のナショナリズムは、歴史性や物語性を抜きにして、日の丸や君が代などのアイコンを純粋に信じてしまうその無邪気さに特徴があると述べたが、彼らにとっては天皇すらポップなアイコンとして現れる。「天皇萌え」とすら呼ばれるような「カワイイ」記号としての天皇は、右翼的パンクロッカーだった雨宮処凛一般参賀を観覧した際に観察した「安室ちゃんカワイかったね〜。天皇も見れたしよかったね〜」と話す少女たちや、インターネットで流行した「眞子・佳子様萌え」現象にも同様に確認できる。GLAYやSPEEDが出席し、元X JAPANYOSHIKIがテーマソングを作曲した1999年の国民祭典や、秋元康が作詞し、EXILEが歌った2009年の国民祭典に、サブカルチャー天皇制の融合を感じずにはいられない。

 まとめよう。天皇制が2600年を超える歴史を有してきたのは、日本の歴史において、天皇は常に時代の支配者に従属し、正当性の根拠を調達される方便であったためである。その脆弱性ゆえに天皇制は権力者にとって都合の良い「錦の御旗」として利用価値があり、それゆえ存続を可能とした。存続根拠をその継続性によって自己言及することで正当化できる天皇制の自己増殖的な構造は、その無時間性ゆえに構造主義的な言説を可能にした。三島由紀夫にはじまり、90年代後半から顕現した新しいナショナリズムに見られる無邪気さは、この構造主義的無時間性に親和的である。歴史性を必要としない天皇制は、その結果、現在ポップなアイコンとしてサブカルチャーとの融合状態で現在生きながらえている。




(1)「天皇制」という語は、戦前の日本共産党などの左派勢力による「君主制」批判の文脈から派生した造語であるが、ここではそうした語の歴史的経緯は無視して、広く定着しているこの言葉を使用する。

(2)神武天皇から現在の125代今上天皇を正確に断絶なく続いてきたと考える説は今や一部のナショナリストを除いて誰も信じていない。歴史的資料により存在が確認できるのは、甘い評価をして15代応神天皇である。

(3)一部の例外とは、南北朝時代における天皇中心主義の復活の試み、明治以降の天皇主権があげられる。