中村秀之「映画の全体と無限 ドゥルーズ『シネマ』とリュミエール映画」『立教映像身体学研究』3巻, 52-72, 2015

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63[35]前田英樹は或る談話で、「非中枢的知覚」はすでにリュミエール映画に現われていて、その驚きに立ち帰ることがドゥルーズの『シネマ』の最初のモチーフだったのは「明らかなこと」だと断言した。「映画の本性」、『ユリイカ』1996 年 10 月、102 頁。しかし、「非中枢的知覚」に関する前田の洞察は、本文で述べたようにドゥルーズの考えとは真逆と言ってよい。むしろこの概念を梃子として『シネマ』を批判的に読解することが可能だったのではないか。それはたいそう生産的な企てとなったであろうと思われる。
66 小松弘がジャン・ミトリに依拠して述べたところによれば、今日一般に解されているような「単位」としてのショット概念が形成されたのは 1908 年から 1915 年までの時期である[44]。ショットの概念は、その発生時には撮影時の「カメラと対象の関係の間に築かれる概念であり、それは対象を奪取するものであるという起源的性格」を持っていた[45]。ところが、古典的システムの生成によってショットは作品の単位として認識されるようになる。するとショットの概念は、「語源[「撃たれたもの」]が暗示する〈対象奪取〉の意味を、単に異例で象徴的なものとして沈め、空間を得ようとする演出された一続きの単位としてのプラン[plan =平面]とかアインシュテルング[Einstellung =所定の場所に置くこと]の意味を積極的に吸収してゆくような、映画の物語化形成の傾向をもつ」ことになる。