高所得層集まる有名大学でフィルモグラフィーの講義を受けた優等生監督がひしめくアメリカ映画界とは縁もゆかりもないようなマンハッタンビーチのレンタルビデオショップの片隅で、画質の悪い大量のVHSに埋もれながら脚本を書き殴っていた映画オタクが、もっともアメリカ映画らしく、それでいて他のどんな映画よりも凡庸かつエキサイティングな作品をついに撮影してしまったことに感動を禁じ得ない。そんな思いに打ち震えながら、クエンティン・タランティーノの最新監督作『ジャンゴ 繋がれざる者』を鑑賞した。南北戦争開戦の2年前、黒人奴隷はプランテーション経済の維持のみならず、あらゆる分野にて、新興ブルジョワの手となり足となり苦役を強いられていた。そんな当時のアメリカの暗い影をすべて背負い込んだかのように痛々しく鞭を打ちつけられ腫れ上がった十字傷を背中に残し、ヤクザな奴隷商人に手枷をかけられ足を紐に繋がれながら、ロメロの映画に登場するゾンビのようにおぼつかない足取りで馬車に引かれる黒人奴隷のファーストショットを目にすれば、これからの3時間が重々しい時間になるであろうと覚悟を要求されているように観客が感じるのはやむを得ないことかもしれない。
しかし、いかに歴史的なテーマをチョイスしたところで、かの映画界の悪童がありのままのアメリカ史を引き受けるつもりなど毛頭ないことを私たちは知っている。前監督作『イングロリアス・バスターズ』にて、家族を皆殺しにされたユダヤ人一家の娘ショシャナが、積年の復讐を遂げるために総統ヒトラー、宣伝相ゲッペルス以下、ナチスドイツ首脳陣を、同国のプロパガンダ映画『国民の誇り』をみずから営む劇場で上映するという名目でおびき寄せ、山積みされたフィルムに火をつけることでその場の数百人全員を焼き殺すという大胆な計画を実行させてしまったように、タランティーノはみずからの映画的欲望を実現するためには、史実などお構いなしで脚本を構成してしまう。ならば、彼は黒人奴隷の背中の痛々しい鞭跡にいかにして責任を負うべきだろうか。『キル・ビル』のようにサブカルチャーごった煮のエンターテイメントに仕上げるのか、『パルプ・フィクション』のように分裂症を演じながらも統合された物語を構成するのか、『デス・プルーフ』のように疾走するアクションで魅せるのか。いずれにせよ、私たちに残された選択肢は、奴隷商人に引かれ南部アメリカの森林を行進する黒人奴隷にはじまる本作が、『國民の創生』や『ヤコペッティの残酷大陸』『マンディンゴ』のように歴史を告発する気などまるでないことを瞬時に理解した上で、タランティーノの振り子がどちらに揺れるか期待することのみである。
かつては、香港ノワールやヤクザ映画をあまりに愚直に再現したり、突拍子のない暴力描写の断片をファンクやダンス・ミュージックでつなぎ合わせることで、映画としての体裁をなんとか保つという無作法こそ、むしろ最低限の道徳でありB級的良心であるかのように肯定的に引き受けていたタランティーノの演出は、しかしながら本作では非常にこなれたものに仕上がっている。それは、かつて自作で使用した展開や演出を実に堂々と反復し、浮つくことのない小気味よいテンポで、物語の説話要素に組み込んでいる事実に明瞭に見て取れる。例えば、『イングロリアス・バスターズ』にて、人気女優とレジスタンスのスパイという二重の顔をもつブリジットのエスコートとして、ブラッド・ピット演じるバスターズのアルド・レイン中尉がイタリア人を装いながら潜入したものの、イタリア語にも長けるインテリのナチス高官ハンス・ランダ大佐にあっさり見破られたことを知っていれば、ドイツ語を話せる黒人奴隷の妻ブルームヒルダを救出するために、ジャンゴとドクター・シュルツがマンディンゴ商人と目利きを演じながら、旧大陸の気風を戯画的なまでに残したムッシュ・キャンディの旧友である黒人執事スティーブンの仕えるキャンディ妹の邸宅に潜入し、彼らの理解できない「外国語」のドイツ語で隠蔽工作しながら、ブルームヒルダに対して「我々は君を助けに来た」と諭したところで、その計画がご破算に終わることは誰もが予想できるだろう。その後の食卓のシーンも素晴らしい。既に感動の再会を果たしたジャンゴとブルームヒルダがお互いを知らないものとして、メイドと訪問客という役割を逸脱することなくお互いの無関心を装うとするものの、いつバレるともわからないと怯える2人の緊張がもたらす些細な変化を老獪な執事スティーブンが見逃すはずはない。彼らの化かし合いに加えて、ディカプリオ演じるフランスかぶれの農場主ムッシュ・キャンディと、巨額の取引額を値踏みするシュルツ、ジャンゴの間で交わされるマンディンゴ商談、さらにはブルームヒルダを奴隷としてひどく扱うスティーブン一団に対してジャンゴがいつキレて銃に手をかけるかもわからないと、気を使いながら場の空気を取り持つシュルツなど、各人の思惑が視線や表面的で儀礼的な台詞として複雑に交じり合い、一瞬たりとも目をそらすことのできない緊張感がスクリーンを覆う。言うまでもなく、こうしたタランティーノがこのようなドラマパートで満足するはずがない。シュルツとキャンディの握手にはじまるジャンゴと用心棒集団の激しい銃撃戦は、あまりにも露骨に『男たちの挽歌』のチョウ・ユンファを意識しており、これでもかというほど銃弾と血しぶきが飛び交う痛快なバイオレンス・アクションは、『続・荒野の用心棒』の主役の名を冠するにふさわしく、映画最大の見どころとして楽しめる。
振り返ってみれば、フリッツ・ラングら1920年代以降の亡命ユダヤ人、アメリカン・ニューシネマ、ダーティハリーの帰還や、ほとんど詐欺まがいの手段で『ジョーズ』を撮影してしまったスティーブン・スピルバーグにしても、アメリカ映画の伝統を受け継いだのは常にアウトサイダーだったのかもしれない。『パルプ・フィクション』で"FUCK"を数え、『キル・ビル』の深作欣二の痕跡を嗤って、B級映画の寵児としてネタ的に彼を称揚していたファンは理解しているのだろうか。映画学校で専門的教育を受けることもなく、香港ノワールやヤクザ映画に耽ってばかりいたアメリカ映画界きっての悪童が、誰よりも正統派のアメリカ映画を撮ってしまった喜びを。