スピルバーグとアメリカ映画(1)ハリウッド映画における規制の歴史

 J.J.エイブラムス監督、スティーブン・スピルバーグ製作による『SUPER 8』が優良作であるのは、映画製作者や映画について若干の知見あるシネフィルには自明の理であるように思われる。ところがそうした映画的知見に慣れ親しんでいない者にとって、本作はまったく凡庸な「アメリカ映画」に映るらしい。インターネット上の映画評には戦慄すら覚えるほどである。多くの市民批評家が言うには「あまりにも普通の映画で意外性がない」「カタルシスが得られない」らしい。たしかに本作が典型的「アメリカ映画」であるのはまったく正しい評価なのである。しかし映画的記号=サインを周到に配置し、ここまで平凡な映画を製作できるエイブラムスの実力を諸手を挙げて賞賛できない昨今の映画感覚には危機を感じてしまう『SUPER 8』はまったく凡庸な映画である。しかしそうであるからこそ輝く作品なのである。それはとりもなおさず本作に「アメリカ映画」の本質が凝縮されているためである。今回はこれについて考えたい。

 ここで話は唐突に1930年代のアメリカに遡る。なぜ80年もの過去に遡及するのかといえば、先に述べた「アメリカ映画」の原点が、表象のレベルでも政治的レベルでもこの時代に認められるためである。その理由は1934年から68年のアメリカ映画が「ヘイズ・コード」の時代であったという点に尽きる。ヘイズ・コードー 正式にはアメリカ映画製作配給社連盟による「倫理綱領」 ーとは、この期間アメリカ映画において設けられた検閲制度である。当初は流行しつつあったギャング映画に対する牽制目的で導入されたヘイズ・コードであるが、数年後のカトリック団体の圧力により、さらなる厳格な運用が要求される。その結果、PCA(映画製作倫理規定管理局)が発足し、暴力表現・性表現に関する表現規制アメリカ映画を支配することになる。この規制導入の中心的役割を果たしたのが、ヘイズ・コードにその名を残す共和党政治家ウィル・ヘイズ、そしてPCAの別名「ブリーン・オフィス」に名を残すカトリック系ジャーナリストのジョセフ・ブリーンである。驚いたことにこの両名は、当時の社会的に風当たりの強さに耐えかねたアメリカ映画業界が、本格的規制の予防線を張るために自主的に招いた人物であるという事実である。日本での「ビデ倫」「映倫」と同じ戦略である。しかし映画業界の思惑は外れたのだろうか、PCAによる業界への介入は想像以上のものであった。彼らは、作品がヘイズ・コードに適合しているかどうかを、クランクイン前の脚本の段階からチェックし、修正要求を出し、さらに完成後の試写の段階でもう一度チェックするという極端な介入をしたのである。

 規制の内容としてはさすが保守政治家やキリスト教団体と言うべきか、倫理に厳格なパターナリズム全開のものである。一般原則として、「映画は人生の正しい規範を示すべきであり、観客を犯罪や不道徳なことに共感させてはならない」と述べ、映画内容に道徳性や規範が求められている。暴力表現に関しては「残忍な殺人を詳細に示してはならない」「現代における復讐を正当化してはならない」として、窃盗、強盗、金庫破り、爆破などの具体的行為まで禁止が及んでいる。性表現では、「結婚の制度ならびに家庭の神聖さを称揚せねばならない」として保守的な家族観・結婚観を侵犯してはならないとされる。夫婦でも過剰なキスや性行為は禁止であり、浮気、異人種間の恋愛、レイプ、出産シーンなどが禁止されている。さらに相手を冒涜する言葉として、性的な俗語、ののしり言葉、差別語が「禁止語」としてリストアップされている。衣装としてはヌード、脱衣、過度の露出は禁止。「宗教」「国民感情」の項目では、あらゆる宗教とその聖職者、そして全ての国旗と国家、その歴史や制度を、嘲笑してはならないとされる(ヘイズ・コードの内容は、加藤幹郎『映画 視点のポリティクス 古典的ハリウッド映画の闘い』を参照 )。

 こうした徹底的な規制は映画業界を苦しめたことは想像に難くない。しかしそう簡単ではない。この時代、とりわけ1930年代から40年代半ばまでは、「ハリウッド黄金期」と呼ばれている時代である。『或る夜の出来事』(34)のフランク・キャプラや『赤ちゃん教育』(38)『His Girl Friday』(39)のハワード・ホークスに代表的なスクリューボール・コメディと呼ばれるロマンティック・コメディ映画。『風と共に去りぬ』(39)、『オズの魔法使い』(39)というメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)による鮮やかなテクニカラー・ミュージカル。『市民ケーン』(41)、『三つ数えろ』(46)などハードボイルドとファム・ファタールが絡んだフィルム・ノワール。『駅馬車』(39)などの西部劇。今後のアメリカ映画の方向性を決定づけるような「名作」が立て続けに製作されハリウッドは繁栄の一途を辿っていた。

 表現規制の時代にアメリカ映画が歴史上最も輝いたのはなぜだろうか?この一見した矛盾を説明するために、弁証法的に仮説を立ててみよう。ハリウッド黄金期はあくまでもヘイズ・コードの存在によって支えられており、ヘイズ・コードと共存することによってハリウッドはその命脈を保つことができたのではないか、と。

 映画評論家の蓮實重彦はこの問いの答えを、物語の優位性に求める。ヘイズ・コードが存在することによって映画の視覚優位によるスペクタクル化が抑制され、サイレントからトーキーの移行期に成立した物語優位の原則が、結果的に保護されたのではないかと蓮實は論じる(蓮實重彦『ハリウッド映画史講義』)。物語優位とは、トーキー以降のハリウッド映画がシナリオ重視の映画ということである。これは昨今のVFX全盛の映画と比較して考えればわかりやすい。以前のエントリーで『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』がIMAX3Dという新時代の上映形態の効果を最大限に引き出すために"のみ"特化した映画であることを論じた(『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』にみるIMAX3Dという権力 )。『マトリックス』(99)から『トランスフォーマー』(07)、『アイアンマン』(08)、『アバター』(09)まで引用には困らないこれらVFXによる映像のスペクタクル体験は、もはや映画にとって物語は必要な要素ではないことを示唆している。ストーリーはいかに過去作品で使い古された退屈な自己犠牲やヒロイズムであったとしても、絶え間なく続く緊張と感動体験こそが最重要なのだ。蓮見は、ハリウッドの物語優位から視覚優位への移行が、ヘイズ・コードの消失に伴って生起していると指摘する。つまり68年のヘイズ・コード廃止から、年齢制限などのレイティング・システムへの移行と時代を同じくして、ハリウッドの視覚化は進行し、いかに見せるかの至上権争いに映画会社を駆り立てたのである。この視覚優位への移行がヘイズ・コード期には制限されていた。その理由が表現上の規制であるのは言うまでもない。こうしたハリウッド映画史を考慮すれば、先の仮説に対する蓮見の説明が的を得ていることがわかる。ヘイズ・コードによる製作環境の著しい制限が、皮肉にも脚本重視による映画の物語優位を延命せしめ、サイレントからトーキー移行期の技術発展も伴って、30年代から40年代のハリウッド黄金期を支えたのである。

 ヘイズ・コードは68年に廃止されていたにもかかわらず、「ヘイズ・コード的」なパターナルな道徳性・倫理性は表現規制として、その後のハリウッドに依然としてこびりついてた。その事例として、リチャード・フライシャー監督『信じがたいサラ』(76)のエピソードを紹介しておきたい。この映画は、享楽と背徳に彩られたフランス第二帝政期を舞台とした女優の人生物語なのだが、フライシャーは、そこにサラの妹を登場させ、男に弄ばれた上に麻薬で身を滅ぼすという設定を付け足し、アクセントとして導入することで物語の平板さを補おうとした。この部分が、出版社の重役会議で問題となり、未婚女性の不倫も覚醒剤による転落もスクリーンに描くべきではないと判断される。薬物使用描写や性描写を禁じたプロダクション・コードは廃止されていたにもかかわらず、76年の映画会社にはそれが厳然と生き続けていたのである。あるいはヘイズ・コードの精神は宗教映画に対する過敏な反応としても現れた。マーティン・スコセッシ監督『最後の誘惑』(88)に対するキリスト教団体による上映禁止運動がそれである。十字架に架けられたキリストが、マグダラのマリアとの結婚から多くの子どもをもうけ、最期は普通の人間として死ぬという誘惑があったという解釈に由来するこの映画は、スコセッシ監督による数年来の企画が実現の運びとなるやいなや、ヒステリックな反応に晒され、製作陣に混乱を招いた。

 こうしたヘイズ・コードの精神はある程度は残存したものの、ヘイズ・コード廃止後のアメリカ映画は、これまでとはまったく異なる方向性に足を踏み出すことになる。それはアメリカン・ニューシネマの大ブームである。一般的にはニュー・ハリウッドと呼ばれるこの区分けは、『俺たちに明日はない』(67)、『卒業』(67)、『イージー・ライダー』(69)に代表的な一連の作品群を指す。その特徴は、反体制的・反権力的な若者の精神的な葛藤を描いた作風であり、ベトナム戦争反対の機運やヒッピー・ムーブメントとの密接に関連しているこれら映画は、従来のハリウッド映画的な物語優位の原則には無縁であり、基本的な撮影技術や編集技術を一切無視した野放図な手法によって製作されていた。先行世代との徹底的な断絶を価値判断の中心基準に据えていたアメリカン・ニューシネマの時代に青春時代を送ったスティーブン・スピルバーグジョージ・ルーカスは、しかし、彼らの手法をひたすら拒絶することによって、後の大成功の素地を固めていった。この時期は、スピルバーグは、カリフォルニア州立大学を中退し、71年にテレビ映画として公開予定の『激突!』(71)の製作準備に奔走しており、ルーカスは南カリフォルニア大学を卒業し、ワーナーのスタジオで研修中フランシス・フォード・コッポラと意気投合し、初監督作品『THX 1138』(70)を製作していた頃である。

 こうした歴史を踏まえれば、性もなく、暴力もなく、非行もない彼らの映画世界を「幼稚」と批判するのは的外れであることがわかる。彼らは観客の要請を敏感に察知しながらも、安易なエンターテイメント作品に妥協するわけでもなく、従来の監督やプロデューサーが思いも寄らなかった題材を周到に選択しているのだ。その題材がかつてのヘイズ・コードに抵触しないというところに、彼らの才能が認められる。ヘイズ・コードが消滅し、暴力と性が解放された時代に逆らうように、あたかも表現規制に縛られているかのごとく内容を慎重に選定して映画を製作したスピルバーグとルーカスは、結果として先に述べたようなハリウッド黄金期の正当な継承者となったのである。『スター・ウォーズ』(77)の成功を信じなかった20世紀フォックスの経営陣のような既存映画業界の無感覚に愛想を尽かし、自身でルーカス・フィルムを設立し、配給を担当したフォックスに対して聡明にもマーチャンダイジングの権利を要求することで莫大な収益を得たルーカス、ユニバーサルをほとんど騙すようにして『ジョーズ』(75)を製作してしまったスピルバーグは、当初からヘイズ・コード後のアメリカ映画業界から距離を保っていたのである。