スピルバーグとアメリカ映画(2)『SUPER 8』と伝統的形式の反復

 さて、これまで述べてきたように、アンチヒーローの無意識的なヒロイズムの謳歌に終始したアメリカン・ニューシネマ的な手法を突き放すことで、30年代的物語優位のアメリカ映画を継承したスピルバーグであるが、その内容も「映画のお手本」といえるような「伝統的」構成になっている。スピルバーグ作品の特徴は、(1)障害の克服による秩序回復の物語、(2)正体不明の存在がおどろおどろしく接近、(3)異世界の住民とのコミュニケーション、(4)存在感のない俳優陣の3つである。(2)〜(4)はあくまで物語の軸となる(1)を演出するための手段として現れる。

 (2)の要素は理解しやすいだろう。スピルバーグの映画では常に正体不明な不可視の存在が主人公を恐怖に陥れてきた。デビュー作『激突!』において、主人公を襲撃する大型トラックの正体は映画の最後まで明かされることなく終わるし、トラックの運転手は主人公の運転する車を先に行くよう手でサインを送るものの、それ以上の全身は現れない。こうした不可視の存在は『ジョーズ』(75)、『ET』(82)、『ジュラシック・パーク』(93)、『宇宙戦争』(05)など後の作品では、正体不明の恐怖がモンスターとして具現化した。この手法はエイブラムスに脈々と受け継がれている。エイブラムスはインタビューで、劇中エイリアンの全体像が終盤まで現れないことについて、このように答える。

「モンスターの全貌がわかってしまえば、興味も半減してしまうというのが僕の考えだ。例えばリドリー・スコットの『エイリアン』。僕にとってはもっとも恐ろしいモンスター・ムービーの一本なんだけど、そのカットされた部分を観ていたら、エイリアンが立ち上がっているシーンがあったんだ。ヒドかったよ。全く怖くない。スコットはそれをわかって削除したんだ。『ジョーズ』だって、もしサメのモデルがまことしやかに動き、ちゃんとその姿を見せられていたら、あの怖さは生まれなかったと思う。だからダメなんだよ。よーくみせちゃ!(笑)」。

 言葉のとおり、『SUPER 8』ではエイリアンは徹底して不可視の存在として子どもたちを恐怖させる。

 直後に起きる激変を予告するサインが劇中至る所に埋めこまれているのもスピルバーグの映画の特徴である。暗闇から発する強力な光という『ジュラシック・パーク』『ロスト・ワールド』『E.T.』などでお馴染みのスピルバーグ的サインが過去でも類を見ないほど強調される。この「青白い光」が本作の最大の特徴である。光は様々な手段でショットに介入してくる。最初は子どもたちによる自主制作映画の照明の光として現れ、その後列車の先頭車両のライト、車のライト、店内の電灯、映写機の像、最後は宇宙船の光と、かたちを変えて何度も繰り返し現れる。鑑賞者は光が介入したら、何かが起こることを予感しなければならない。光がもっとも強く介入するシーンは意外にも序盤に登場する。それは子供たちが自主映画撮影時、アリス(エル・ファニング)とメガネの友人マーティン(ガブリエル・バッソ)の別れのシーンである。刑事であるマーティンが妻のアリスに別れを告げるのだが、リハーサルにもかかわらずアリスはなにかが取り憑いたように神がかり的な演技を披露し、周囲の皆を唖然とさせる。演技を終えたとき、アリスの目には涙が浮かんでいた。アリスの熱演時、介入する青白い光は劇中最も眩しく画面右端から左向きに侵入していた。エイリアンが登場し、町に潜むこの後のスリリングな展開を考えれば、ここはさほど重要ではないシーンに思われる。なぜここで光は最も強く光り輝いたのだろうか?

 理解を深めるために、(1)障害の克服による秩序回復の物語について考えよう。スピルバーグの作品に限定されることなく、多くのアメリカ映画では主人公や周囲の人びとは何かしら人間関係の欠損を抱えている。それは親しい者の死であり、断絶した親子関係であり、満たされない恋愛関係などが挙げられる。登場人物は、偶然にも遭遇したパニックを共通体験し、困難の克服の過程を通してこの人間関係が回復するのだ。本作でも傷ついた人間が多数登場する。主人公の少年ジョー(ジョエル・コートニー)は鉄工所の事故によって母親を亡くしており、父親と悲嘆に暮れた生活を送っている。その事故はジョーの友人アリスの父親ルイス(ロン・エルダート)が酒に呑んだくれて仕事をサボったため、欠員を埋めるために彼女が勤務した矢先の出来事だった。ジョーの父親ジャックはこれを恨みルイスを嫌うのはもちろん、アリスと息子のジョーが接することすら禁止しようとする。ジョーとアリスはこの「家庭の事情」を無視して自主映画製作など同じ時間を過ごすうちに、お互い惹かれ合っていく。障壁(家族関係)の克服(それを超えた恋愛関係)。さらに恨みあっていた父親同士すら、エイリアンによって誘拐されたアリスを救出するに際して、どういうわけか過去の事故について和解し、救出のため協力するようになっている。障壁(妻の死)の克服(死を超えた和解)。破綻した関係→パニックの共有、障害の克服→秩序の回復が見事なまでに図式的に反復される。これが本作の中心的テーマになっている。

 それを考えれば先に触れた光の強さの意味がわかる。アリスは自分の父親が原因でジョーの母親が死んだことについて、ジョーに申し訳なく思っている。アリスはジョーの母親の代わりに「父親が死ねばよかったのに」とすら涙ながらに言う。ならば序盤の迫真の演技は、演技ではなくアリスの本心であったことがわかる。去る者を引き止めようとするアリスの強い意志、破綻した関係の原因を作った罪深さとその回復を願う気持ち、それが最も端的に表現されていたのがアリスの演技である。アリスの演技のシーンで青白い光が最も強烈に差し込めたのは、「破綻した関係の、事件を媒介した回復」というアメリカ映画で最も反復された古典的テーマこそが本作の主題であることの表明である。それは同時に30年代のハリウッド黄金期の作品を反復したスピルバーグを反復することで、アメリカ映画史の正統後継者たらんとするエイブラムスの宣言とも取れる。

 エイブラムスは、10代のことに若き日のスピルバーグのフィルムを修復する仕事を依頼され、「子どの頃に見た映画の記憶といえば、すべてがスピルバーグのものなんだ」と憧れを隠さない。本作の舞台が79年のオハイオ州であり、主人公が8ミリキャメラ(スーパー8)である本作は、1966年生まれのエイブラムスの自伝的映画であると同時に、この時代に彼が劇場で感動したスピルバーグの映画のオマージュである。となれば冒頭に本作が典型的「アメリカ映画」であるという批判者の意見にそれなりの妥当性があるとした理由が明らかになる。2011年に公開された本作は、1979年のエイブラムスの記憶であると同時に、彼が少年期に見たスピルバーグ映画の記憶である。この二重の記憶を映画で描出することは、とりもなおさずスピルバーグ的手法を反復することであり、それはすなわちヘイズ・コード消失の時代にて、あえてヘイズ・コード的手法に回帰したスピルバーグ的したたかさを反復することに他ならない。以上を踏まえれば、本作が凡庸なアメリカ映画・SF映画に過ぎないという批判は全く的外れということになる。むしろ全く凡庸な映画を反復することを堂々と断行したエイブラムスの決断を評価することが、アメリカ映画史の擁護につながるのである。