ジョージ・マーシャル監督『砂塵』(1939)

西部劇ではなく、スクリューボール・コメディ。映画をジャンルで区分することに、どれほどの意味があるのか確証を持てなくても、『砂塵』を見てしまえば、誰だってこのように形容したくなるに違いない。そう断言できる証拠はいくらでも見いだせる。

事実、どうやらジョージ・マーシャルは、「距離」の概念にはそれほど関心が向いていないようなのだ。ハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』『エル・ドラド』『リオ・ロボ』を挙げるまでもなく、西部劇は本来、ガンファイトを媒介とした二者間の距離の美学であるはずだが、牛牧場に立ち退きを迫る詐欺師のケント(ブライアン・ドンレヴィ)一味による威嚇射撃や、あるいは、保安官補佐として赴任した優男のデストリー(ジェームズ・ステュアート)が、暴れるならず者にみずからが射撃の名手であることを知らしめるかのように、看板から飛び出る小さな出っ張りを的確に狙撃したところで、撃つ側と撃たれる側の距離を把握したガン・アクションとは、とても言えまい。

むしろ、本作で圧倒されるのは、群衆の存在である。オープニングでは、町で騒がしく生活する住民の群れが長回しのドリーで撮影され、ケント組と保安官組がポーチを挟んで激しく撃ちあう終盤の銃撃戦は、ファランクスのように一糸乱れず行進する女たちの群衆がそのあいだに割って入ることで休戦を余儀なくされる。何より目を見張るのは、映画中盤、ダンスホール・クイーンのフレンチー(マレーネ・ディートリッヒ)の営む酒場で巻き起こる大乱闘だ。ドンレヴィ一味とディートリッヒのイカサマカードで大金を巻き上げられた男の妻が酒場に乗り込み、色目で夫を騙したとディートリッヒに食って掛かることにはじまる騒動は、妻とディートリッヒによる、まるで『カリフォルニア・ドールズ』の泥んこプロレスを思わせるようなキャットファイトから、仲裁に割って入ったはずのステュアートを巻き込んでの乱闘へと暴発する。酒場の野次馬たちは、香具師のようにこれを煽り、マスターに至っては、ヤケクソになったディートリッヒがステュワートを狙うために投げつける酒瓶を器用にパスし、その後ろでは中国系の男たちが物珍しそうに顔を並べて見物する。暴れ回る群衆が飽和する喧騒の空間は、西部劇的な距離の美学とは対極にあり、むしろこれを無効化する機能さえ担っているのだ。

西部劇からスクリューボール・コメディへの移行は、ディートリッヒのアクションを見ても明らかだ。怒りの矛先が女からステュワートに移行したディートリッヒは、慣れない手つきで拳銃を握り、ステュワートに狙おうとして周囲をパニックに陥れるが、なかなか手元が定まらない。業を煮やしたディートリッヒは銃をステュワートの方へ勢いよくぶん投げ、暴走する勢いのまま手元の酒瓶を手当たり次第に拾っては投げつけて攻撃を続行する。怯んだステュワートが背中を向けたと思いきや、すかさず後ろから飛びつき、まるで肩車のような姿勢のままステュワートの頭を両手で殴り続ける。いまや西部劇的な距離の美学は拳銃の投擲と共に放棄され、対立する男と女はその距離をゼロへと密着したまま、やがては愛へと落ちるスクリューボール・コメディの主題へと激しく、しかしなめらかに移行する過程が、行為の連続に明瞭に見てとれるのだ。

あるいは、ここで先ほど名前を挙げたハワード・ホークスが、本作と同時期のスクリューボール・コメディにおいて、幾度となく「転倒」の主題を反復していたことを思い出しておくのも無駄ではないだろう。『赤ちゃん教育』のケーリー・グラント、『教授と美女』のダナ・アンドリュースと同じように、ステュワートを椅子で攻撃しようと突進するディートリッヒは、彼が身をかわすと同時にバランスを崩し、豪快に転倒するのであった。ホークス映画において転倒するのは、つねに男であり、女性の優位に対する男性の劣位を物語る運動であったような機能を担っていないにしても、その脚線美で伝説となったディートリッヒの転倒は、男性・女性の非対称性といった主題などはさておき、胸のすくような鮮やかだったのは疑いない。