『みんな〜やってるか!』における北野武=ビートたけしの笑いの強固さについて

 今年4月に公開された『龍三と七人の子分たち』は、1995年に公開された『みんな〜やってるか!』以来、実に20年ぶりの北野武監督のコメディ映画である。松本人志品川祐など、後輩芸人が続々と監督デビューし、畑違いである映画の厳しい洗礼を受けるなか、いわゆる「ビッグ3」に数えられるほど、日本のお笑い文化の中心に位置し、かつ映画監督として世界的に評価されている北野武ビートたけしが、彼のフィルモグラフィーにてコメディ映画をほとんど撮ってことなかったこと自体、驚くべき事実だろう。

 本稿では北野の人物像ではなく、彼のコメディ映画第一作『みんな〜やってるか!』にて、北野がどのような笑いのトリックを仕掛けているかを一瞥しながら、そのような表現が彼のいかなる映画観・お笑い観のもとで演出されているか、そのねじれた関連性について考察したうえで彼の手法が実のところ映画史の常道に位置する強固な構造をもっていることを指摘したい。

 自身が特集されたフランスのドキュメンタリー番組にて、北野は『みんな〜やってるか!』について次のように自己評価する。

「自分がお笑いを専門としてやってきたんで、自分のやってきたというか、いままでのお笑いまでもバカにしてしまおうっていう、だからすごい計算して、ギャグをつけて、やっぱりお笑いだからこういうのうまいねなんていうのも、それ自体もまたバカにして、なんてヒドいことをするんだってのをやりたかったんですけどね。でもそれがわかんなくなってしまって、結局自分自身もダメにしてしまった」

 お笑い芸人として頂点を極めた北野がコメディ映画を監督することに対して周囲が寄せる期待。「私たちはきっと『ひょうきん族』や『元気が出るテレビ』の「あのビートたけし」を見ることができるだろう」と世論に形成されたわかりきった役割を完遂することへの期待。北野はこうした「みんなのたけし像」に居心地の悪さを感じていたに違いない。周囲の期待するたけし像を拒絶し、あらゆる印象を宙吊りにして観客を戸惑わせるべく、みずからのイメージを映画を通じて内側から解体する戦略。ここにはすでに、一部では迷走期と評される『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』の三部作における強烈な自己否定的破滅願望の端緒を見出すことができるだろう。

 それでは北野がここで北野が述べる「笑いの否定」とは、どのような表現として結実しているだろうか。具体的に見てみよう。本作は、「女とヤりたい」という漠然とした、しかし普遍的な欲望をもつ主人公の朝男(ダンカン)が、その目的を達成するべく自動車の購入、銀行強盗、現金輸送車の襲撃などを目論むがいずれもうまくいかず、あれよあれよという間に時代劇に出演したり、ヤクザの抗争に巻き込まれたり、地球防衛軍に参加し怪獣と戦うなど、次から次へと荒唐無稽な事態に直面することになるナンセンス・コメディである。全体を貫くような主題性や物語らしい物語はほとんど存在せず、観客はその場その場でなかば偶発的に行われるコントを連続的に見ているような印象を受けるだろう。

 とはいえ、各シーンがお互いの関連性をほとんどもたないまま独立した単発コメディとして分散したような脚本構成は、それぞれのシーンの断片にて北野がいかなるトリックを仕掛けたのかを考察するにあたってはなんら問題にならない。それどころか、作品全体にて個別のシーンがいかなる役割を果たすのか、その機能について考えずに済むのでむしろ好都合ですらある。

 第一のシーン。空を見上げながらジャンボジェット機のファーストクラスで、キャビンアテンダントから乗客に施されるであろう性的サービスに憧れるダンカンが、その資金を賄うべく銀行強盗に押し入るシーン。面をかぶって変装したダンカンは、窓口の女性に銃を突きつけ「金を出せ」と脅迫するが、女性は彼に視線すら向けることなく、他の客に応対したり、「番号表を取ってお待ちください」と事務的に返答するばかりで、驚くことも叫ぶこともしない。彼女はまるで、銀行強盗どころか、ひとりの客以上の存在としてダンカンを認識していないかのようだ。ダンカンは彼女に指示されるまま、カウンターの機械から番号表を抜き取り、そのまま客としてソファーに座って自分の順番を待ってしまい、結局、銀行強盗をすることなくその場をあとにしてしまう。



 この一連のシーンに北野映画シニシズムを読み取ることは難しくない。ここにあるのは、ある目的を達成するべく秩序を撹乱しようとする哀れな男が、個人では制御不可能なシステムに裏切られる転倒の機序である。銀行強盗に押し入ったダンカンが想定する脅迫から金の強奪という計画は、彼を銀行強盗と認識せず、銃の存在すら気に留めることのない窓口の女性によって実にあっさりと頓挫する。だが異常なのは彼女だけではない。銀行内で順番待ちして窓口の女性とやりとりをかわす高齢女性、ソファーに座り雑誌を手に順番待ちする中年男性、記帳代で手続きを行う中年女性、窓口の女性の隣で業務を行う別の女性など、フレームに収めるすべての人物がダンカンを銀行強盗として認識することなく、それぞれの平穏な日常を生きている。ダンカンは脅迫した女性だけに無視され、否定され、敗北したわけではない。彼はフィルムに定着され映像によって表象された映画というシステムそのものに無視され、否定され、敗北したのだ。

 本作で同様の形式が繰り返し反復されることを確認するため別のシーンを見てみよう。第二のシーン。腕利きの用心棒としてヤクザ組織に招かれたダンカンが、対立する組織にその腕前を披露するため、敵対組織の組長の頭部にウィリアム・テルさながら林檎を乗せ、それを目隠ししたまま日本刀で一刀両断するよう命じられる。しかし、剣術になどまるで覚えのないダンカンは狙いをはずし組長の首をあっさりと飛ばしてしまう。敵対組織の組員は激情に駆られ、こちらの組織の組員との殺し合いがはじまる。ところが、ダンカンはここでも徹底的にシステムに拒絶される。どちらの組員にしても狙うのは敵対組織の組員ばかりで、親玉を殺害したはずのダンカンは目隠しをしたまま、みずから飛ばした組長の頭部を抱え、周囲が日本刀を振り回して殺しあうなか、ただただ無言で直立不動を貫くしかない。気がついたときには周囲の男たちはすべて命を落とし、ダンカンだけがそこに残っていた。




 たしかに事が起こるまでダンカンは、腕利きの殺し屋として客人扱いされていたが、それすらいくつかの誤解の重なりによって偶発的にたどり着いた結果に他ならず、ダンカンが彼自身として周囲に認知されているわけではない。ましてや、一旦、組長の首を切断して闘争がはじまってしまえば、彼は虚飾の身分すら喪失し、言葉どおり、存在しないものとしてシステムから放逐されてしまう。

 さて、冒頭にて北野映画における「笑いの否定」として総括した『みんな〜やってるか!』のシニシズムは、言葉本来の意味で機能しているだろうか。映画監督とお笑い芸人の二重の顔をもつ北野武ビートたけしは、映画にて表出される芸人としての笑いを脱構築することに成功したのだろうか。

 この問題に解答を与えるため、比較対象としてある映画を参照したい。バスター・キートン監督・主演『キートンのハード・ラック』(1921年)である。キートン演じる自殺志願者の男が様々な方法で自殺を図るがいずれも失敗してしまうサイレント・コメディである本作のワンシーンに注目しよう。キートンは夜道を走る車に轢かれようと道路に身を投げるが、画面奥から手前に向かって走行する車のライトのように見えたそれが実は並走する2台のバイクのものであることが明らかにされ、キートンはバイクに挟まれるように通過されてしまい、彼の自殺はあえなく失敗する。


 ここで生起しているのは、キートンよりもはるかに人間中心主義へ傾斜するチャップリン的コメディとは対局に位置するシステムの転倒と個の否定である。『モダンタイムス』でコンベアのリズムにみずからの身体を同期させることに失敗したチャップリンが、それでもリズムを合わせようと苦心すればするほど、流れ作業は失調し、チャップリンは周囲に混乱を及ぼしてしまうように、あくまでひとりの人間を中心に混乱が発生するチャップリンに対して、キートンにおいては、周囲の環境=システムがキートンの意図とは無関係に彼を裏切る。三浦哲哉は『サスペンス映画史』にて、「キートンの場合は、パフォーマーの身体のイメージにおけるそのような失調だけが問題なのではない。キートンの驚くべき独創性は、彼の周囲の環境そのものが失調する点にある」。「地面があると思えばなく、ないと思えばある。主体の予期を裏切るように意想外の環境が配置されるのがキートンのギャグのひとつの法則である」と指摘する。自殺を望み、車道に身を乗り出したキートンを嘲笑うかのように、システムは本来の姿(2台のバイク)を表し、彼の意図を挫いてしまう。2台のバイクはキートンに反応することなく、彼を挟むように素通りしてしまい、キートンはシステムに無視され、その場に放逐される。

 ここに北野的シニシズムと同型の構造を見出すことは容易い。北野はお笑い芸人としてのみずからのテクニックをただ映画のフレーム内で再現して穏当に評価されることを嫌い、映画というフィルム体験を利用して、芸人「ビートたけし」としての笑いを否定し、そのイメージを解体しようと狙った。しかし、映画における笑いの否定は皮肉なことに、キートン以降の映画の古典的な笑いに意図することなく回帰していたのである。それを傍証するのが、本稿にて確認した『みんな〜やってるか!』と『キートンのハード・ラック』の同型性であった。

 だが、重要なのは、映画というフィールドにて芸人としての自己を否定する北野の脱構築的戦略が、映画史的には古典的で凡庸なコメディへと回帰してしまったことだけではない。北野映画のコメディは映画表現においては実に古典的である。だが、それゆえに強固な構造を持っていること。これである。映画という表現形態において、形式を反復することは必ずしもネガティブなエピゴーネンを意味するわけではない。形式の反復によって構造が維持され、そこからオリジナリティが産出される。

 システムに取り残され、弄ばれる個の存在は、北野映画では極めて頻繁に反復される。『ソナチネ』にて手足を縛り上げられクレーン車に吊るされた雀荘経営者は、機械的動作を反復するクレーンの上下運動によって海中に繰り返し沈められ溺死する。『座頭市』にて子どもに剣術を稽古するガダルカナル・タカは、稽古をつける三人の子どもと打ち合う木刀のリズムを失調した結果、みずからの頭をボコボコとリズミカルに叩かれる。

 芸人「ビートたけし」としての役割への期待に対する拒絶が、監督「北野武」のねじれた、しかしそれでいて映画史の系譜にはっきりと関連性を求めることができる強固で構造化された笑いへと彼を導いた。ふたつの顔をひとつの身体に同居せしめてなお分裂症的に破綻することなく、自己否定の欲動をフィルムに刻み続けるひりついた痛みと紙一重の笑いにリアルタイムで接する途方もない幸運を感じずにはいられない。