松本復興大臣会談の映像論的注釈

 松本龍「前」復興担当大臣の辞任騒動は、菅政権がいよいよ末期的状態にあることを印象づけた。周知のとおり、復興担当相就任後で初めて被災地入りした7月3日の宮城県村井嘉浩知事との会談での横暴な発言内容が辞任の直接的なきっかけである。7月3日から今日までの世論の反応は主に、(1)政治家による報道規制の是非、(2)「遅刻」という行為の社会的意味づけ、(3)同和利権含む松本の出自、に分類できる。しかしこれら個別の内容は全て、会談を報じたわずか1分20秒の映像を手がかりにして論じられている。会談映像のメディアによる報道→鑑賞者による批評→辞任に至るまでの政治的判断という一連の過程は、松本の出自や政治家としての是非といった外部情報を遮断し、純粋な映像の解釈学に専心することで可能になっている。従って今回の問題は純粋に映像論的問題、もしくは映像による政治的表象の問題であると考えられる。

 映像は映画的に見れば映像は2つのシーン、7つのショットで構成されている。そのうち最後の1シーン1ショットは、会談後の村井知事による単独記者会見なので、会談そのものは1シーン6ショット、時間にして1分8秒程度となる。この短時間のムービーで伝えられる、松本大臣、村井知事、秘書や職員、マスコミによって交わされる、細かな人間関係の観察によって議論は可能になる。

 それぞれのショットの内容を見てみよう。ショット1、松本が県職員の女性に案内されて会談が行われる部屋に入室してくる。記者団はすでに部屋に入っており、キャメラの位置からは奥から手間に歩いてくる。ショット2、県知事到着前の松本は秘書だろうか隣の寂に座るメガネの男性に「先にいるのが筋だよなあ」と不満気に話しかける。ショット3、村井知事が史料片手に「どうも!」と挨拶しながら笑顔で入室する。緊張もあるのだろうか、やや不自然な足取りで松本の近くに歩み寄り握手を求め右手を差し出す。この時すでに着席を促すように左手を座席に向けていた松本は、歩み寄ってきた村井の動きに意外性を感じ、さらにどこか疎ましげに「握手は終わってから」と左手を9時の方向から仰ぐようにして前方に振り、村井を自分の前方の席に座るよう流す。握手を断られた村井は、コミュニケーションのすれ違いを苦笑しながら席に移動する。ショット4、村井は以前から宮城県で計画されていた水産特区に関する県からの要望書を手渡す。松本は史料をめくりながら着席し、眉をひそめながらその内容を一瞥する。

 ショット5、松本は「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々なんにもしないぞ。ちゃんとやれ。そういうのは。それと、後から自分は入ってきたけどお客さんが来るときは(ここで指を上から前方に振り下ろす)自分から入ってきてお客さんを呼べ。いいか?長幼の序がわかっている自衛隊ならそんなことやるぞ。わかった?」村井「はい」松本「しっかり、あの、やれよ」と高圧的に話す。そして顔は前方の村井の側を見ながら、声は全体に伝えるように、まるでオーディオコメンタリーのようなトーンで問題の発言「今の最後の言葉はオフレコです。いいですか。みなさん」。マスコミの誰か「ハイ」。松本「いいですか。書いたらその社は終わりだから」と述べる。一度目の「いいですか」のときに松本は若干の笑みを浮かべながら手前のマスコミを見る。このときマスコミだろうか、鼻で笑うような小さな音声が聞こえる。大臣とマスコミによる笑いの呼応関係は、松本の報道規制命令が冗談にすぎない事を理解してのものだろうか、それとも、政治家と記者の間の歴史的な暗黙の合意が今だに生きている業界性を自虐するものだろうか。松本は「その社は終わりだから」を言いながら首を今度は右側にゆっくり動かし、逆サイドのマスコミに向けて語る。ショット6は村井に語りかける松本の映像を流しつつ、ニュースのナレーションが流れる。以上が問題の映像のすべてである。

 わずか1分の映像内容を冗長にも書いたのは、今回の議論は「一義的には」これが全てであることを強調するためである。さきほど3つに類型した様々な議論は、そのすべてが、この1シーン6ショット、1分8秒程度のショートムービーの注釈から始まる。会談内容はもちろん、表情や声、細かなジェスチャーの分析が、松本の出自や社会常識と結びつけて、その善悪に纏わる語りが可能になる。映像の評論がベタな善悪判断に結実し、政治的評価とは乖離したニンゲン評価が政治家判断につながる。発言はこうして「失言」化する。末期状態の菅政権にこの理不尽な世論のカスケードに言い訳する余力は残っていない。

 もちろんこの映像評価→世論暴走→政治判断の過程にあまりにも多くの要素が排除されていることは言うまでもない。村井が松本に提出した水産特区構想がそのひとつである。提案には、震災による港湾被害への補償案が含まれているものだが、提案内容の大部分は震災前から構想されていたのである。この水産特区は漁業への新規参入を促進するため、漁協への参加なしで操業を可能にするものである。この政策が提案される背景には、漁協の閉鎖性が水産業への新規参入を阻害している前提があり、以前から政策を促進する県側とそれを偏見とする漁協側で議論が行われていた(焦点/宮城「水産特区」構想 是か非か)。東北の水産業に関するこうした政治性も、映像と政治の短絡的意思決定の過程では捨象されている。

 メディアによる表象と政治の濃密な関連性は、近年、メディア政治として分析されてきた。大衆民主政治において政治家が正当性を獲得するためには、不特定多数の消費者に商品を売り込むように、常に自らに関する魅力的なイメージを有権者に訴えかける必要がある。メディア政治においては、メッセージの中身よりも、政治家の個人的なイメージをいかにして印象よく有権者に訴えるか、コンスタティブな水準ではなくパフォーマティブな水準において、彼の振る舞いが受け取られるかというイメージの技法論が興隆した。わかりやすいスローガンで期待感を喚起するワンフレーズ・ポリティクスは現在でも受け継がれているし、スピンドクター(spin doctor)という政治家のイメージを管理する振付師も世界中で仕事を請け負っている。

 このように一般的なメディア政治論では、政治家によるメディアを用いた大衆扇動を指すことが多いが、情報化社会が徹底し、あらゆるメディアによって政治のモニタリング機能が発達している現在では、説明としては不十分である。メディア政治は、政治家→視聴者としてイメージ扇動に利用されるだけではなく、今回の一件のようにマイナス・イメージの短時間の拡散として現れる場合もある。さらには主要政党が「次の総理」調べた世論調査の内容を「勝てる代表」として認め、総裁選・代表選で投票する傾向も指摘されている(柿崎明二『「次の首相」はこうして決まる』)。つまり情報化が徹底した現代社会では、政治による社会のモニタリングと、社会による政治のモニタリングが同時に深化し、ある場合には政治家の有利なポジショニング獲得の戦略として利用され、別の場合にはネガティブなイメージの爆発的拡散として働く場合もある。政治家が効率よく立ち回るためには、この現代的な前提をみずからの行為に組み込む必要がある。松本によるマスコミへの「恫喝」は、従来の日本政治では日常茶飯事だった。政治家と番記者の間に信頼関係を構築することで、公言できない重要情報をオフレコとして流し、記者はそれを匿名情報として掲載していた。マスコミと政治家のこうした癒着構造は、権力による情報の秘匿であると同時に、暗号化して私たち市民に情報を流す「政治的妥協」でもあったのだ。しかしこうした手法は現代では通用しない。政治家は「プライベートが存在しない」ことを前提にして、言葉の端々まで神経質にならねばならないのである。