高岡蒼甫の件について(1)窪塚洋介と自分探しのナショナリズム

 ここ数日、インターネット上で高岡蒼甫が話題になっている。韓国ドラマやK-POPなどの韓流コンテンツを数多く放送するフジテレビを批判する発言をインターネット上に書き込み、それが理由で所属事務所を解雇されたというのだ。高岡は自身のTwitter

「正直、お世話になった事も多々あるけど8(フジテレビ)は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば。しーばしーば。うちら日本人は日本の伝統番組求めてますけど。取り合えず韓国ネタ出て来たら消してます^^」(7月23日 参照)(括弧内記述は筆者)

と投稿。さらに「ここは一体どこの国だよって感じ、気持ち悪い」と不満を表明したという。

 今回は高岡の発言や行為の是非、それらで話題となっている韓流ブーム、フジテレビの資本や番組編成に関する経済学や力学、ネット上の反応を扱わない。高岡に先立ってナショナリスティックな言説を繰り返し発言していたもう一人の人物と比較することで、高岡の人物像、彼を今回の件に動かせしめた内発性に迫りたい。その人物とは窪塚洋介である。以下では中島岳志窪塚洋介と平成ネオ・ナショナリズムはどこへ行くのか」(『論座』2006年1月号)を参考に、窪塚の人物像を記述する。

 窪塚は1979年、神奈川県横須賀に生まれ、小中学校を優秀な成績で卒業し、名門の横須賀高校に進学した。しかし「毎日毎日やることねぇし、金もねぇ/とりあえずマックかカラオケか/コンクリートの居心地がスゲェ気持ちいい、/そんな楽しくてくだらない日常のループ」(『GOー窪塚洋介ワニブックス)に嫌気がさし、高校をドロップアウトする。「自分には個性がなんじゃないか」「俺の個性ってなんだろう…何が好きなんだろう?」(『Wind』2001年10月号)という自分探しの迷宮に迷い込んだ窪塚に転機が訪れたのが、2001年公開の映画『GO』である。本作にて窪塚は在日コリアンの高校生である杉原を演じた。杉浦は朝鮮人学校に通う悪童であり、喧嘩や万引きを繰り返し周囲から煙たがれる存在だった。しかしある日、杉原はパーティで桜井(柴咲コウ)という少女と出会い恋に落ちる。杉原と桜井は、ぎこちない関係を重ねながら少しずつお互いの気持ちを理解するようになる。杉原は、家族や恋人、学校といった関係の中で、「在日」として生きることを背負わされ、「俺って何なんだ!」と苦悩しつつも、最終的には民族的偏見を乗り越えることで桜井との恋愛関係を成就することになる。深夜に閉鎖された高校の校門を乗り越え、グラウンドに乗り込むシーンは、民族的境界を越境したことを象徴する感動的なラストシーンだ。

 しかし窪塚は本作で杉浦を演じることで、逆説的にナショナリストに転向するようになる。当時のインタビューで窪塚はこう語る。

「何かイライラしていたのも、きっと全体が見えていなかったからだと思う。俺は社会の中で生きているんだ。俺が生きているのはこの日本で、俺は日本人なんだ、っていう部分。『GO』という作品の中でコリアン・ジャパニーズの杉原が感じていたアイデンティティは、そういう社会のシステムにぶち当たったことで生まれたんですよね。でも、俺は日本人で日本に生きていて、この環境は当たり前にあったものだから、考えずに素通りしてきてしまったんだと思うんですよ」(『Spotting』2001年10月号)

 在日コリアンと日本人という民族的境界を越境した杉原と、日本人であることを再認識した窪塚、両者の立場は確かに真逆のものであるが、窪塚にはそう認識されない。一見矛盾する立場を同一のものとして窪塚に感じさせたものは「社会のシステムへの抵抗」という心象である。自分自身をアイデンティティの危機に追い込んでいる社会的要因、窪塚にとってそれはアメリカによって平定され、飼い慣らされた戦後の日本である。

「「コドモ民主主義」、「アメリカ至上主義」の成れの果て、/極東バビロンへようこそ/ってなトコでしょうか。/日本の伝統、文化、精神を否定したアメリカが建国した国、/日本。/歴史がねじれる、捻り切れそうになる、/ここで誇りが奪われた。/注意すべきなのは、たまたま奪われたワケではないということだ。/見えない牢獄は巧妙なシステム、腐敗した金権政治、悪循環、/無意識で洗脳されてますよ俺達」(前掲『GO』)

 窪塚は、「アメリカの東京裁判史観にプロパガンダされ、韓国・中国に内政干渉される『ヨワヨワ』でダセえ日本」を乗り越え、真の日本に目覚めなければならないと考えた。「俺が手に入れるべき『本当の自分』」は「日本が手に入れるべき『本当の日本』」と同一視された。

 ナショナリストとして覚醒した窪塚は、2002年に一本の映画をプロデュースした。ヒキタクニオ原作『凶気の桜』である。本作のストーリーは、若きナショナリストの山口、市川、小菅の幼馴染3人がネオナチを彷彿とさせるような結社「ネオ・トージョー」を結成、純白の戦闘服を見にまとい、自分たちの育った街である渋谷から「売国奴」を一掃しようと、街中で半端な不良や大人を「狩る」というものである。「チャラチャラしてんじゃねえよ!フェイク・ジャップは片っ端から叩き潰してくからな!」と次々暴力を振るう。劇中に登場する女子高生、遠山景子の次の台詞は象徴的である。「私ね、日本ていう国は好き。でも最近の日本人は嫌い。でも、一人だけ好きになった」。窪塚にとって打破すべきは、「『ヨワヨワ』でダセえ」「ニセモノの日本」であり、「売国奴」を襲撃したネオ・トージョーのように、不純物を一掃した純粋なる日本を求める心象がここに確認できる。

 こうしたナショナリストとしての転向と期を同じくして、窪塚はスピリチュアルやニューエイジ的世界観に傾倒するようになる。2002年、ニール・D・ウォルシュ『神との対話』を読み、神に目覚めたという。

「宗教本じゃない、/神様が話している本です、/最高なんだよこの神様が、/『神様だ!』って思いましたよ、/まいったって感じ、」(窪塚洋介公式ホームページ)

 この後、窪塚のスピリチュアルへの傾倒は加速し、石油エネルギー中心の世界を変革するため、大麻の有効利用や、水へのポジティブな言葉の呼びかけ、有機野菜のススメや神秘体験、UFOとの遭遇を積極的に発言するようになる(『Quick Japan』52号、2004年1月)。この半年後、窪塚はマンションから飛翔した。

 中島はこうした窪塚の半生を振り返り、20代を中心として台頭している「平成ネオ・ナショナリズム」を見出す。ニューエイジ的世界観と過激なナショナリズムが同居する窪塚に象徴されるような「ゆるくて熱い」二重性を、バブル景気を体験していないポスト団塊ジュニア世代以降にみられる心象として解釈する。こうした分析は、90年代後半から2000年代中盤まで盛り上がった若年層のナショナリズムと関連して当時頻繁に論じられたものである。窪塚に象徴されるようなナショナリズムは、高岡蒼甫の言説とどのような関係を結ぶか、差異と同一に注目しながら、次節では高岡について考えたい。