冬季オリンピックと雪なしオリンピックー多文化主義の論理的陥穽

 著名な国際政治経済学者ポール・ケネディが、2010年3月のトリビューン・メディア・サービスのコラムにて興味深い提案を行っている。「なぜ雪国だけに楽しませておくのか」と題されたコラムでケネディは、冬季オリンピックを例に挙げ、文化論的批判を展開する。

 冬季オリンピックは言うまでもなく、ウィンタースポーツを中心として成績を競う国際大会であり、その性質上、雪国に圧倒的有利になっている。2010年に開催されたバンクーバーオリンピックでは、獲得メダル数の最上位は、アメリカ、カナダ、ドイツ、ノルウェーであり、いずれも国内に豪雪地帯を有する雪国である。その一方、カナダとアメリカを除けば、北米も、中米も、南米も、ただのひとつもメダルを獲得できなかった。アフリカや中東、南アジア、東南アジア、太平洋地域も同様である。彼らの成績にここまで大きな差がついた理由はあまりにも明確である。雪が降るか、降らないか。これだけである。メダルを大量獲得するような雪国に、熱帯、亜熱帯の国が対抗するのは無理な話だ。1986年冬季オリンピックで、ジャマイカボブスレーチームに参加した前例は、コメディ映画『クール・ランニング』で有名だが、その華々しい負けっぷりもまた笑い話として語り草になっている。

 こうした明瞭な事実をもとに、ケネディは挑発的にこう述べる。「冬季オリンピックは、気候が温暖な諸国に対する明白な差別である」と。さらに冬季オリンピックに対抗して「雪なしオリンピック」「変てこオリンピック」の開催を提案する。「雪なしオリンピック」の唯一絶対の条件は、雪国が自然的な優位を持たないこと。むしろ徹底してその反対に、温暖な国に有利になることである。例えば「真珠採りダイビング」でギリシャの島々やモーリシャス、太平洋の島国を優遇し、「ラクダ競争」で中東諸国を優遇するといった具合に。

 いささかの冗談を込めているように思われるかもしれないが、ケネディの提案は至って真剣なものであり、それだけに考察する価値のあるものである。執拗なまでに「反・冬季オリンピック」として「雪なしオリンピック」を提案するケネディの思想は、政治学では「多文化主義(multiculturalism)」と呼ばれるものに分類される。多文化主義とは、一つの国家や社会の中に異なった文化が共存できるように、集団間の政治的、経済的、社会的不平等を是正しようとする運動および主張を意味する。この立場は、世界に存在する多様な文化を単一の文化に同化することなく、文化間の相互承認・尊重に基づく文化の共存を主張するものだが、重要なのは、そうした文化的な差異の導入が私的な寛容にとどまらず、公的な領域に及ぶべきだとする点である。つまり多文化主義は、私的領域の自由を容認するという意味での多元性ではなく、公的な領域の文化的な多元性を求めるのである。典型的事例として、多言語を公用語として使用すること、公教育において、西洋史だけではなく、それぞれの文化や共同体の視点を導入することなどが多文化主義的な政策である。

 多文化主義的な文化の多様性への寛容と実践は、実に聞こえがよく、なんの問題もないように思われる。しかし70年代以降のアメリカ、カナダ、オーストラリアで唱えれたこの思想は、ある論理的難題に直面することになる。それは最もリベラルで他者に対して寛容と思われた多文化主義が、人種主義やナショナリズムに反転するというものである。この極端な反転を理解するのは簡単である。「すべての民族は同様に尊重されなければならない。それゆえに『われわれ』も同じく尊重されなければならない」というわけだ。この論理は優遇措置(アファーマティブ・アクション)問題として具体化している。ある大学が社会的に少数で弱い立場に立たされていた人々を考慮し、彼らのために特別枠を導入したと仮定してみよう。100人の入学人数のうち、半数を女性に、さらに10人を外国人留学生の特別枠として設定されたらどうだろうか。多くの本国人の男性受験者は、この制度に不満を持つことだろう。「彼ら、彼女らが優遇されているために『われわれ』は不利な立場に立たされている。これは逆差別だ!」。こうして相対的に剥奪されていると感じたマジョリティが、同じ多文化主義に基づいて、みずからも同様の優遇措置や保護を受けるべきであるとの主張を行うようになる。マジョリティによるこうした態度がマイノリティの一部を先鋭化させ、過激な思想や行動を誘発することになる。こうしてリベラルな多文化主義は、その論理構造上、人種主義やナショナリズムに逆転するのである。

 こうした必然的構成にも関わらず、多文化主義者は、諸文化が平和的に共存する、普遍的で均質な空間が現実に存在することについて、独断的で素朴な信念を持っている。冬季オリンピックによって差別を受けている熱帯、温帯の各国が、対抗措置として「雪なしオリンピック」を開催するべきとするケネディの提案は、オリンピックにてメダルを平等に獲得するための、決定的解決策にはなりえないのだ。多文化主義者の誤謬が指摘されるならば、私たちは文化的に異なる他者と、いかにして共存共栄すればいいのだろうか。それを支える論理的根拠はどこにあるのか。この問題についてさらに深めるためには、多文化主義と似て非なる思想の文化多元主義(cultural pluralism)について考えを巡らさなければならない。