今日もキリスト教社会で高く評価される美徳の一つ「貧者への愛」。それは紀元4‐5世紀に誕生し、キリスト教会を中心とする新しい社会システムを創成する新機軸となった。ローマ帝国のキリスト教受容という出来事を、古代末期研究の泰斗、ピーター・ブラウンが独自の視点で読み解く。メナヘム・スターン記念エルサレム歴史講演の記録。
第1章 「貧者を愛する者」―一つの公的な徳目の創造
「都市を愛する者」から「貧者を愛する者」へ
「受けるよりも与えるほうが幸いだ」―パウロからコンスタンティヌスまで
コンスタンティヌス以後―特権と救貧
第2章 「貧者を治める者」―司教とその都市
預言するより施与せよ
「貧者」の定義をめぐる問題
二極分化のイメージ ほか
第3章 「謙譲」―東方帝国における貧困と連帯
キリスト教的慈善の変化―社会的想像力における変化
古代末期における人口学的危機の欠如
5, 204, 7 ヴェーヌ『パンと競技場』ガーンジィ『古代ギリシア・ローマの飢饉と食料供給』キリスト教以前の公的付与について.
9「皇帝の施与物をかたじけなくした人の多くは、しばしばまぎれもない「貧者」でした」「しかし彼らは、「貧者」だったがゆえにこのパンを受け取ったのではありません。彼らがそれを受け取ったのは、自分が「市民」であることを証明できる(現代のパスポートのような)しるし、すなわち配給切符(テッセラ)を、提示できたからです」
14「司教たち、及び―平信徒であれ聖職者であれ―彼らの補助者たちは、徴候以上の存在なのです。彼ら自身が、変化の主導者でした。直截な言い方をするんあら、
キリスト教の司教こそが、或る意味で貧者を発明したのです。貧者が脚光を浴びるようにし、しかもその程度を強めることによって、司教たちは自らの行動を、人々の或るカテゴリー全体(すなわち貧者)の必要に対する応答として提示し、自分たちは彼らのために語っているのだと主張しました」
29「全体として見た場合、後期ローマ時代を前代未聞の大量的貧困化を特徴とする時代だというのは誇張でしょう。
キリスト教の教会が、後期帝国において貧者の面倒を見ることによって「衰退する世界の死の床にあって慰藉的な存在」として振る舞った、という言い方をするH・ボルケステインに、私は同意しかねます。古代末期について興味深いのはむしろ、以前からつねに在ったのと同じ貧困を私たちは目にしているのだということであり、しかし私たちはその貧困を、今や
キリスト教徒のより鋭い目で見ているのです」
33「
古代イスラエルにおける「貧者」は、古代末期を通じて
キリスト教徒たちの想像力について回ることになる悲惨のイメージを体現するような、全くの無一文だったわけではありません。
イスラエルにおける連帯の使者が言う「貧者」とは、己を恃(たの)みとする部族民、小農、さらには貧困化した貴族たち、つまり
喜捨をでなく正義と暴力の停止とを求めて、神に、また有力者たちに叫んだ人たちのことだったのです」
44「つまり理想的には、貧者への施与物はすべて、司教及びその聖職者団を経由していくこととされたのです。というのも、彼らだけが、誰が支援を必要としているかを知っていたからです」
58「
コンスタンティヌスは、教会のリストに登録された
寡婦・孤児・貧者の支援のために、食料及び衣服の徴収分を聖職者たちに割り当てることをしました」「これら登録された人々は」「初めて」「厳密に
キリスト教的な言い方で「貧者」として定義されました」
109「「貧者への配慮」に関する
キリスト教の実践と説教は、自由人によって生み出され、自由人のためにのみ行われたのです。
キリスト教的慈善は、無一文状態にある自由人を慰めるため、そして自由人を貧困化から守るために行動しました。奴隷は、この慰藉・保護の過程にいかなるかかわりをも持っていませんでした。なぜならこの過程は、排他的に一人の保護者によって「所有される」ことのない、自由人の運命にかかわるものだったからです」
254, 278, 4 ブラウン『古代末期の世界』「率直に言って、同書は翻訳というにはあまりに意訳・自由訳にすぎ、原著者のいわんとしたことを同書から"正確に"読み取ることは、残念ながら期待できないと言わざるをえない」
254, 279, 7 ブラウン『
アウグスティヌス伝』
270 ブラウン『古代末期』150-750年を古代末期と一括
275 ヴェーヌ『「私たちの世界」が
キリスト教になった時』「
キリスト教を自分たちヨーロッパ人の過去だと称しつつ、それを根でないと言い張るヴェーヌの議論は、歴史的にも論理的にも完全に破綻していると言わざるをえない」