加藤幹郎著『映画ジャンル論 ーハリウッド的快楽のスタイル』(1996)メモ

映画ジャンル論―ハリウッド的快楽のスタイル

映画ジャンル論―ハリウッド的快楽のスタイル

フィルム・ノワールとギャング映画はどう違うのか?10のジャンルの規則と作法、生成と変容、そしてその快楽を、多彩なフィルムの豊かな表情をとおして解き明かす。待望の日本初本格的ジャンル映画論。

序 ジャンルの映画あるいは映画のジャンル
第1章 フィルム・ノワール 都会の憂鬱
第2章 道化喜劇映画―災厄を克服する超人たち
第3章 スワッシュバックラー映画―荒唐無稽な政治アクション
第4章 ヴェトナム戦争映画―現代史と映画史の課題
第5章 ファミリー・メロドラマ―理想が現実を凌駕するとき
第6章 スクリューボール・コメディ―常軌を逸した女たち
第7章 恐怖映画とポルノグラフィ―おぞましさのスペクタクル
第8章 ギャング映画―アメリカン・ドリームの隘路
第9章 ミュージカル映画―地上の楽園
第10章 西部劇―荒野と文明の緩衝地帯

第1章 フィルム・ノワール 都会の憂鬱
レオス・カラックス汚れた血』、ラース・フォン・トリアーエレメント・オブ・クライム』、ロバート・ゼメキス『ロジャー・ラビット』、リドリー・スコットブレードランナー』、ジョン・ヒューストン『マルタの鷹』、ドン・シーゲルダーティハリー』、リチャード・ドナーリーサル・ウェポン』、オーソン・ウェルズ『上海から来た女』『黒い罠』、ジャック・ターナー過去を逃れて』、ヴィム・ヴェンダース『ハメット』、チャールズ・ヴィダー『ギルダ』、フリッツ・ラングスカーレット・ストリート

第2章 道化喜劇映画―災厄を克服する超人たち
フランク・キャプラ『当たりっ子ハリー』、チャリー・チャップリン『街の灯』『独裁者』

第3章 スワッシュバックラー映画―荒唐無稽な政治アクション
ジョー・ジョンストンロケッティア』、ラウール・ウォルシュ『バグダットの盗賊』
p.112「むろん1938年公開のハリウッド映画で言及に値するものといえば、『ロビンフッドの冒険』、『赤ちゃん教育』、『我が家の楽園』、『白雪姫』などほんのひとにぎりしかないが、大作『風と共に去りぬ』の撮影がすすめられていたのは、まぎれもなくこの年なのである。そしてよろこばしき1939年がやってくる。この年、アメリカ人はもう一度祖国をふりかえし(きなくさい欧州から顔をそむけ)、自国を舞台にした「アメリカ的主題」の大作にどっぷりとつかることになる。『駅馬車』、『若く日のリンカーン』、『オズの魔法使』、『スミス都へ行く』、そして『風と共に去りぬ』といったアメリカ再発見の大作がやつぎばやに公開され、熱狂的にむかえられたこの年は合衆国国民のじつに65%が週末を映画館ですごした年でもある」

第4章 ヴェトナム戦争映画―現代史と映画史の課題
p.150「重要な事は、この右よりの第一作(ジョン・ウェインレイ・ケロッグ『グリーン・ベレー』)ののち、いわゆるヴェトナム戦争の泥沼化がすすむ1968年までの5年間に、『グリーン・ベレー』を含め、わずか3本の国産「ヴェトナム戦争映画」しかつくられていないということである。しかも驚くべきことに、翌69年から76年までのあいだは、わずか1本の「ヴェトナム戦争映画」しかないのである」「ハリウッドは第二次世界大戦のときと同様、朝鮮戦争のときも開戦とほぼ同時に当該サブジャンル映画の量産体制にはいる。世界映画史上初の朝鮮戦争映画は『鬼軍曹ザック』サミュエル・フラー監督50年)だが、このフィルムをかわきりに『朝鮮のヤング』(ルー・ランダース監督51年)など終戦の年(1953年)までに少なくとも20本の「朝鮮戦争映画」が撮られ、その後の十年間もハリウッドでは年3本のペースで確実に「朝鮮戦争映画」は撮られつづけられる」
p.153「同時代のもっとも深刻な社会問題たるヴェトナム戦争を正面からとりあげることができなかったニューシネマだが、そのかわり対インディアン戦争とでもいうべき西部劇(『ソルジャー・ブルーラルフ・ネルソン監督70年)や、朝鮮戦争第二次世界大戦を舞台にしたブラック・コメディ(『MASH』ロバート・アルトマン家督69年、『キャッチ22』マイク・ニコルズ監督70年)といった既成の諸ジャンルに仮託するかたちで、ヴェトナム戦争の不条理と「残虐」を映画的に考察してみせたのである。
p.153「ハリウッドはヘイズ・コードの廃棄(1968年)によって、ようやく「現実」に一歩接近しえたというのに、当時の世界的難題たるヴェトナム戦争という「現実」にはついに到達することができなかったのである」

第5章 ファミリー・メロドラマ―理想が現実を凌駕するとき
デヴィッド・リンチワイルド・アット・ハート』、「男性映画」監督としてアイダ・ルピノ『重婚者』、ニコラス・レイ『黒の報酬』『理由なき反応』
p.176「メロドラマとは、言葉のもっとも基本的意味において、この勝つか負けるかの素朴な二元論的戦いのことである」
p.189「メロドラマとは、勝つか負けるかの善悪の祖母甲な二元論的戦いであり、それゆえ二極化されたモラルをめぐる省察である。この意味で映画的メロドラマの系統樹は多岐にわたる。それはメロドラマが展開する舞台によってさまざまに下位区分される」戦争メロドラマ、ダグラス・サーク『愛するときと死するとき』、アクア・メロドラマ、リュック・ベッソン『グレート・ブルー』、西部劇メロドラマ、キング・ヴィダー白昼の決闘』、フィルム・ノワール・メロドラマ、マイケル・カーティス『深夜の銃声』、ファミリー・メロドラマ、アイダ・ルピノ上述作品

第6章 スクリューボール・コメディ―常軌を逸した女たち
ダニー・デヴィートローズ家の戦争』、フランク・キャプラ『群衆』、ジョージ・キューカー『アダム氏とマダム』、アルフレッド・ヒッチコック『断崖』

アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ〈上〉 (講談社学術文庫)

アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ〈上〉 (講談社学術文庫)

p.205「スクリューボール・コメディが描く世界はもっぱら金持ちたちの世界であり、金融恐慌以後の貧富の接近が「持つ者」と「持たざる者」との皮肉な邂逅と和解の物語を可能にする。シンデレラ・ストーリーが流行する直前に、観客の心をとらえていたのはギャング映画である。ギャング映画がアメリカン・ドリームを追求する貧しい移民たち、暴力した資本をもたない新移民たちによる資本主義的階梯の物語であったとすれば、スクリューボール・コメディはすでにアメリカン・ドリームを達成した旧移民たちの息継ぎの物語に見える。つまりスクリューボール・コメディは、たんに「持たざる者」の側にたって上流階級、有閑階級を笑いのめす封止映画だけではないように思われる。それは大恐慌以前には「持つ者」への階梯を登りつつあった中間階級にとっての、スノッブなノスタルジーの物語にみえるのだ」

第7章 恐怖映画とポルノグラフィ―おぞましさのスペクタクル
『ゴールデン・ポルノ』、ポルノ映画ではなく「女性映画」だがシャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディールマン』、ローランド・V・リー『フランケンシュタインの復活』
p.228「性をめぐる検閲の歴史を社会学的に考察する書物は少なくないが、ポルノ映画を作品の水準で論じきった書物は、いまのところアメリカの映画学者リンダ・ウィリアムズの手になる1989年刊行のもの1冊しかない」

p.234「恐怖映画とポルノ映画のこの日表現後の量的/質的な際はなによるもまず製作システムの差に由来する。前者が大手スタジオによって製作されたのにたいして、後者はもっぱら独立系の小プロダクションの手にまかされていた。ハリウッド映画というとき、それは一般にスタジオ各社(パラマウント、MGM[ロウズ]、ワーナー、20世紀フォックスRKO、そしてユニヴァーサル、コロムビアユナイテッド・アーティスツ、あるいはリパブリック、モノグラム等)の映画のことであり、大手スタジオとは50年代までに実質的に崩壊するまで、自前の撮影所、専属俳優、スタッフをはじめ、全米の系列劇場までも支配下におく独占的な企業体を意味した」「おなじころ(1920-40年代)、ポルノ映画はまだ「スタッグ・フルム」と呼ばれ、非合法に製作されひっそりと上映されるマイナーな存在だった」
 「安定した経営基盤をもつ「ビッグ・ファイヴ」(前出のスタジオ5社)にたいして「リトル・スター」と呼ばれた製作会社があるが、ユニヴァーサルがそのひとつに数えられたのは、信頼できる資金借入先もなければ全米配給網もなく、誇れるものは撮影施設(ユニヴァーサル・シティ)と同族経営の堅い結束くらいだったからである。しかしそれでもユニヴァーサルは恐怖映画を看板にすることで、管財人管理下におかれる他の大手3社をしりめに大恐慌をのりきり、1934年からはみごと黒字経営に転ずる。この意味で『フランケンシュタイン』が製作公開された1932年は、「長いあいだ映画会社」によって「敬遠」されてきた恐怖映画の製作元年であると同時に、ユニヴァーサル社の再建元年にあたる。よみがえる死者たちの映画によって、ユニヴァーサルは起死回生をはたしたのである」

第8章 ギャング映画―アメリカン・ドリームの隘路
第9章 ミュージカル映画―地上の楽園
p.292「こうしてアーサー・フリードの名が重要になるのは、ミュージカルがほかのどのジャンル映画にもましてスタジオ・システムの産物だからである。良いミュージカルは「監督、脚本家、撮影監督、編集者はいうおよばず、パフォーマー、作曲家、舞台美術家、芸術監督、音楽監督、振付師らさまざまな個人の」緊密な協力関係のうえになりたっている」「アーサー・フリードがMGMでのプロデュース第一作(『青春一座』バスビー・バークレー監督)を発表するのは1939年のことである。この年は彼も参加した同じMGM製作の『オズの魔法使』が公開された年でもある。これ以降、MGMは先発者ワーナー・ブラザーズ社をしりめにミュージカル映画の代名詞となり、最盛期(1947年)には1年に7本ものミュージカル映画をヒットさせることになる」

第10章 西部劇―荒野と文明の緩衝地帯
ケヴィン・コスナーダンス・ウィズ・ウルブズ』、マイケル・マンラスト・オブ・モヒカン』、クリント・イーストウッド許されざる者
※修正主義的西部劇(PC西部劇)と『ブラッド・メリディアン』など関連づけて分析できそう。
PC西部劇:デルマー・ディヴィス『折れた矢』、エイブ・ポロンスキー『夕陽に向かって走れ』、ジョン・フォード『シャイアン』(p.313「この時期のジョン・フォードは「ハリウッド・インディアン」という異形の怪物の創造にあずかった作家のひとりとみなされ、それゆえ『シャイアン』はこの大作家の過去の詰みを償うためにつくられたといわれる。しかし」…)、「ネイティヴ・アメリカンを過度に賛美」エリオット・シルヴァスタイン『馬と呼ばれた男』、ラルフ・ネルソンソルジャー・ブルー』、アーサー・ペン小さな巨人