大竹文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』

 本書は、初学者用の経済学テキストや、『経済学的思考のセンス』など良質の入門書を数多く記してきた大竹文雄による一冊である。「週刊ダイヤモンド」の2010年のベスト経済書ランキング第1位、2011年新書大賞第4位など、評判も上々らしい。その内容は、仕事や食事などの生活にまつわるミクロな問題から、非正規雇用問題、最低賃金外国人労働者などのマクロな問題まで、経済学の基礎的知識を参照しながらケーススタディーすることで、経済学という学問分野がどのような思考に基づいて成立しているのか解説するもので、初学者でも理解しやすいように書かれている。風が吹けば桶屋が儲かる方式で思考する経済学的センスを養うには良書だろう。各論ばかりで、議論が深まらないのは残念なところだが、入門書にそのような注文はないものねだりというものだ。

 しかし今回述べたいのは、こうした表面的感想ではない。わたしの記憶する限り、本書のような経済学の入門書が新書で数多く出版されるようになったのは、小泉政権の「任期満了」後、すなわちいわゆる「格差社会問題」が顕在化した時期に対応しているように思われる。たとえば、岩田規久男『経済学への招待』、壮士の経済学者、飯田泰之による一連の著作などである。この傾向は、ケインジアン新自由主義者、いわゆる「リフレ派」など、経済思想や政策の傾向にかかわらず、多くの研究者、エコノミストが著者となっている。格差社会の問題化と経済学入門書の乱発が同時期に起きたのはなぜか?

 日本の格差社会問題の原因を考察すれば、それだけで長大な論証をようするだろう。遡ればオイルショックや、バブル期の土地狂乱から崩壊、1997年に始まった正社員削減、サービス業製造業における現業員の非正規雇用への切り替えになど様々な理由が挙げられるが、それが多くのメディアで中心的に論じられるようになったのは、2007,8年を前後とするポスト小泉の時代〜安倍、福田、麻生政権期である。なかでも、当時、「派遣切り」「非正規切り」の悲惨な労働環境や、生活状況がメディアで大々的に取り上げられ、一躍、最大の政治的イッシューになったことが最大の理由である。とりわけ、従来、その多くが正規雇用であった男性の非正規雇用者比率が高まったことが、問題を大きくした。

 この時期に経済学の入門書が乱発されたのは、「派遣切り」「非正規切り」問題に象徴されるような格差社会が、小泉純一郎竹中平蔵に代表されるような「新自由主義者」「ネオリベラリスト」による「市場原理主義」的な政策によってもたらされたものであり、中間集団による相互扶助や行政府による再分配機能の欠如した弱肉強食の市場経済に任せておけば格差は広まるばかりではないかという、格差社会の原因=新自由主義=自由経済という世論の誤解を解き、市場経済を擁護するためのものであったと振り返ることができる。

 ところが、分野によって多少の違いこそあれ、経済学には以下のような根本原理によって規定されている。市場は限られた資源、費用のもとで効用を最大化しようと振る舞う自由なる経済主体によって成立しており、パレート最適な配分を達成することで均衡が達成され秩序が維持されると。したがって経済学者はこのように主張する。経済の予測が外れた=不確実性に関する市場の失敗は、ある変数を経済計算の要素の一部として取り込むことができなかったために生起したのであって、変数を計算式に組み込み、修正を繰り返していればいつしか市場の完璧な予測が達成される。経済学のこうした根本原理は、従来の論理的枠組みの内部で、予測の失敗を経済計算の失敗と解釈し、循環的に「経済する」ものである。この根本原理を、「経済学的自己言及」と名づけよう。

 この経済学的自己言及には「外部」が存在しない。すなわち、市場の失敗に至った外部を常に変数として数学的に変換し、計算に組み込むことで市場の予測はより正確なものになる。すべてを数学的に内部化することを目指すのである。このような外部を内部化する運動は、まさに資本そのものであることは、改めて考察する必要があるだろう。

 しかし格差問題が噴出した当時、多くの世論が抱いた市場経済に対する疑念は、市場計算によって内部化される以前の「外的要因」の重要性、すなわち法や倫理といったものであろう。例えば、下層に位置する人びとには「温情」を持って接して、「法的」に保護すべきであるというのは、経済計算の内部に取り込まれることのない「感情」の問題である。これは計算可能性を信望する経済学的「主知主義」に対する、不器用な「主意主義」的温情と解釈するのは早計であろうが、市民の無知を意図的に等閑視する傲慢な振る舞いと捉えられたとしても、この問題は考える価値はある。経済学的自己言及と政治における情念の問題の関連を。


競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)

競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)