『みんなで牧場物語』とネトゲの論理

 最近、時間つぶしのために『みんなで牧場物語』というソーシャルゲームをはじめたのだが、なかなかに面白くてついつい作業の合間にプレイしてしまい、「ネトゲ廃人」の端緒を覗いたかのようで、その恐ろしさを痛感している。

 そもそもぼくはこれまでネトゲのプレイ経験がほとんどなく、大学入学後ほとんどゲーム自体から遠ざかったとはいえ、たまにプレイの機会があるかといえば昔ながらのコンシューマーかゲームセンターくらいだった。というのも、ごく最近までぼくはネトゲに対するある疑念を抱き続けていた。それは課金制である。基本的には初期費用ゼロでゲームをプレイできるネトゲで利益を上げるためには、ゲームを有利にプレイできるようにアイテム等をクレジットカードで決済して購入するのが、企業側の論理だろう。これは営利活動としてはもっともだ。

 しかし、単純に考えてこのシステムは、金を投資した人が、そのままゲームの世界でも強者になってしまうことを意味する。オフラインでプレイできる家庭用ゲームならば、同一の初期費用を投資してゲームソフトを購入してしまえば、あとは平等であり、プレイヤーの技術によって優劣が決定する(もちろん友人間の情報交換やネットの攻略情報などの環境に依存している部分もあるだろう)。しかし課金制のソーシャルゲームならば、お金さえ投資してしまえば、プレイ技術は等閑に付されてしまうのだ。

 感覚的にに類型化してしまえば、コンシューマー=平等主義、ソーシャル=自由主義ということになるだろうか。限定された環境で全員横並びでスタートするコンシューマーに対して、ソーシャルゲームはスタートは同一であるものの、プレイ中の投資によって優劣が決まる。従って、ソーシャルゲームの運営はジレンマに苛まれるだろう。提供するゲームを万人に開かれたものにするためには、富者が勝利する興冷めの構造を粉飾し、誰でもそれなりに楽しめるサービスを追求する必要がある。しかし採算を取るためには課金制を捨てることもできない。この両義性に。

 このジレンマを解消するひとつの方法は、「没入させること」だろう。お金で優劣が決定する論理が全てのプレイヤーに認知されてしまえば興ざめだ。したがって、ソーシャルゲームはプレイヤーに、「そんなことはわかっているけどやめられない」プレイ環境を提供する必要がある。いわば、ソーシャルゲーム自由主義の環境内でプレイしながら、その世界を成立させている前提条件を忘却させてしまうよう扇動しなければならない。感覚を麻痺させる必要があるのだ。

 目下プレイしている『みんなで牧場物語』にもその仕掛けがいたるところに準備されている。例えば、「とにかく作業させること」である。『みんなで牧場物語』はゲーマーではお馴染みの「牧場物語」シリーズとほとんど同一のシステムであり、プレイヤーは牧場の主人となり、野菜や家畜を収穫・飼育し、それによって得られたお金でさらなる野菜・家畜を購入したり、設備を投資する。これによって牧場を拡大・発展させるものだ。ポイントは、育成が主に二つの手段で行われることである。第一は時間をかけた育成、第二はアイテム獲得である。前者はゲームが進むごとに多くの時間を必要とする。例えば、収穫までにイチゴは48時間、ニンジンは72時間を必要とする。ならばこの時間、プレイヤーは暇になってしまい、ゲームを一休みできるかといえばそうではない。その間プレイヤーは第二の手段でプレイすることになる。他のプレイヤーの牧場を訪問し、野菜や動物を「お世話」することでアイテムを収集しなければならないのだ。つまり、「時間をかけた育成」と「アイテム獲得」の両者が求められる以上、ゲームを最も効率的に進めるためには、プレイヤーは休みなしでずっとプレイするしかないのである。

 これは極めてーとりわけ日本人の心象にー訴えかける仕組みである。私たちの多くは作業させられることを望んでいる。与えられた余暇を自由に使いこなすほど、私たちの多くは賢くないので、職務のみならず、余暇の時間すら「作業させられる」ことを望んでしまうのだ。ソーシャルゲーム自由主義を粉飾して、多くのプレイヤーを獲得、維持するために、ネトゲ運営側による没入の仕掛けはこのように巧みは構造で私たちを誘惑する。ネトゲ廃人はこのようにして誕生するのだと実感した。



写真はわが牧場。バンビがお気に入り。