『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』にみるIMAX3Dという権力


 体を冷たく突き刺す雨から逃げるようにサッポロファクトリーに避難し、その足でユナイテッド・シネマで上映中の『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』を鑑賞してきた。今回私が書きたいのはこの大人気映画の感想ではない。本作を観るに当たって初体験してきた新時代の映画形態IMAX3D方式の感想である。

 3D映画といえば古くは地元の青少年科学館に税金を投入して設備投資された三文映画や、ディズニーシーでのアラジンなどが思い出される。前者と後者のクオリティーは段違いだけど。劇場でも近年興行的成功を収めた『アバター』や『トイ・ストーリー3』は鑑賞した。しかしこれら作品はIMAX3Dではなかったために非常にクオリティーの低い3D体験だったのだ。眉間に負担のかかる3Dメガネを装着しながら、暗い画面を二時間以上(!)も見つめなければならないのは苦痛そのものだった。そんな地獄のような3D体験で唯一功を奏したのは、『トイ・ストーリー3』で感動のあまり大粒の涙を流してしまったところを、3Dメガネはかけていたおかげで隣で観ていた彼女に泣いていることをバレずに済んだところぐらいだろうか。

 さて、今回体験してきたIMAX3Dだが、これは間違いなくこれまでの映画の概念を覆す新たな舞台装置と言える。サイレントからトーキー、モノクロからカラーに次ぐような映画史における鑑賞形態の断絶、決定的な変化かもしれない。先に述べた従来の3D体験とはまったく異なる「イメージのスペクタクル化」が実現されたのだ。

 IMAXシアターは従来の劇場と何が違うのか。簡単に説明する。従来の上映形態と異なりプロジェクターが二台配置される。2つのプロジェクターからそれぞれ微妙に「ズラした」映像がスクリーンに投影される。観客はこのズレを3Dメガネを装着して鑑賞することで立体的な映像を体験することになる。客席の前後間隔は従来の劇場よりも狭くなっており、スクリーンは全面にせり出している。スクリーンと客席の距離は驚くほど近く、一旦前列に座ってしまえば、観客はスクリーンの全体像を、首を動かさなければ捉えられないようになっている(不幸にも土曜日なので客席がいっぱいで前列しか空席がなかったのだ)。さらにスクリーンは客席全体を囲い込むようにわん曲している。これに3D効果が加わることで、観客は映画の世界に飛び込むような錯覚を受ける。つまり観客は第一に物理的な距離間隔としてスクリーンに接近しており、第二に3Dによる映像の「飛び出し」として映画世界に接近する。二重の接近が行われる。

 映画世界に没入するためにはこれ以上なく準備されたこの舞台装置は、しかし、従来の映画の体験の仕方を徹底的に駆逐し、更新することを要求してくる。かつてならば映画のショット一つ一つを煌く流れ星のように動体視力で把握・暗記しショットの連続の関連性を解釈する余地が存在した。少なくともCG全盛による映画のエンターテイメント化、スペクタクル化以前はそれが成立した。画面に生起した運動をどこまで見ることができるか、映画のひとつの画面にこめられた一瞬の情報量をどこまで収拾することができるかが、映画体験の作法の一つとして尊重されていた。ゴダールは1秒24コマのフィルムを「映画は1秒間に24の死である」と形容したが、「24の死」にどこまで立ち会うことができるのかが、作品の制作者と鑑賞者の間に暗黙の了解で成り立っていたコミュニケーションであった。

 しかしこのコミュニケーション作法は、IMAX3Dにおいてはもはや成立しない。コミュニケーションが拒絶されているのだ。通常の上映方式であっても瞬きすら勿体無い動体視力が要求されていたにもかかわらず、IMAX3Dはそれすら比較にならないほどの情報の洪水に飲み込まれることになる。『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』を観れば、本作がいかに3D上映されることを前提として制作された作品であるかが、実に明瞭にわかる。例えば空間の奥行きを鑑賞者に分かりやすく認識させるためめ、映画の常識に照らせば考えられないほど手前に小道具を配置する。この小道具に3D処理を施すことによって、飛び出す机や剣、蝋燭の炎と、その後方で会話するジャック・スパロウたちを立体的な空間として懇切丁寧に認識する機会が与えられる。

 3D効果を最大限に引き出すための映画内容の最適化は、時にはを演出技術の不自然として確認できる。2つのプロジェクターの映像の「ズラシ」によって「飛び出し」の程度を決定しているため、映像編集者は「ズラシ」を人物、物体ごとに設定せざるを得ない。このため「飛び出さない背景/ちょっと飛び出すジャック/手前に大きく飛び出す剣」という具合に物体間の「飛び出し」程度が明確に分類されてしまい、飛び出す物体の間で距離的断絶が起こる「飛び出す絵本」になってしまうのだ。

 この「飛び出す絵本」化をごまかす手法はただひとつ。とにかく動かすことである。アクションシーンを増やすのだ。そのため3D設定はアクションシーンに多用されており、会話中心のドラマシーンではほぼメガネをかける必要ない通常の上映形態となっている。アクションシーンにおいては、3Dを体感させるため様々な意匠が施される。馬車で逃げるジャックを背面から取るショットでは、ジャックが後ろ側(画面手前)に酒(だったか?)を撒き、引火させることで追っ手の英国軍の騎馬隊から逃れようとするのだが、炎が上がった段階でカメラは炎の前(ほぼ追跡する英国軍人の視点に同一化している)に近くなっており、画面いっぱいが炎に覆われ、その迫力を体感できるように配慮されている。

 スペクタクルを体感させるために特化して設計された劇場と、3D上映形態を最大限に活かすために細部にわたって工夫を施された映画内容。これらが矛盾なく組み合わされ、鑑賞者は17世紀の海賊たちによる冒険活劇の世界に没入することにになる。私たちは映画世界への新たな旅を強いられるにあたって、従来の映画で当然のごとく行使できた鑑賞形態を改めざるをえないだろう。新たな映像論的接触の哲学を構築しなければならない。不自然に揺らめく炎や投げつけられる空き瓶には痛々しさを感じるものの、いつまでの呆れ顔で軽蔑するだけでは済まされないのだ。