『MJ AKB48 SPECIAL』から引き出された記憶の連鎖

 さっきNHKでAKB特集やってた。特集といっても、本人がスタジオに来てトークしたりライブしたりするわけでもなく、過去のNHKの番組でのライブのランキングなので、取り立てて新しいわけでもない。でもこれを見ていてなんとも不思議な気分になったのね。今回はその不思議な気分について書こうと思う。

 番組は、NHKのウェブサイトでのインターネット投票の結果を元にした人気楽曲をランキング形式で発表するもの。AKB48本体のランキングと、SKEやNMBなどの派生グループ、ノースリーブスなどのグループ内ユニットのランキングが別々に集計されていたっけ。ファンとしてミソになるのは、単純な人気楽曲のランキングではなく、NHKで放送された映像のランキングであるところ。例えば『Beginner』は全番組で唯一、フルverで流されたし、紅白メドレーはグループ総勢200名前後の大所帯によるもの。NHKでの独自性が加味されて投票が行われた点も、ファンにとって嬉しい企画だろう。

 しかしぼくが今回触れたいのはそこではない。ここ5年のAKBグループの楽曲、数十曲を30分?に凝縮され、シャワーのように連続して浴びせられたときの、何とも言えない懐かしさや悲しさ、自分がアイドルを好きだったということの今更ながらの再確認、自分自身のアイドル体験と共に引き摺り出された過去の記憶、様々な後悔、前向きにさせる魅力についてである。

 いくらかの通好みの楽曲が含まれていたとはいえ、ランキングは基本的に、シングル曲で占められていた。これはテレビ番組であることを考えれば当然だろう。シングル以外の楽曲をテレビ番組で歌うケースなどほとんど存在しないのだから。ランキング上位は多くの人が知る『ヘビーローテーション』『ポニーテールとシュシュ』などが占めていた。ぼくは本来、こうしたシングル楽曲はそこまで好みではないのだ。シングル楽曲は、コアなファン以外にも、ライトなファン、ファン以外の層にも向けて、それなりにポピュラーで当たり障りのない曲調にする必要があるからだ。この「ポピュラー」にも解釈の余地があり、『RIVER』『Beginner』のような攻撃的なR&Bサウンドもあれば、『ポニシュ』『ヘビロテ』のようなポップなアイドルソングでもあり得る。しかしAKBグループの傾向を見てみると、秋元康の好みであろうが、後者のような明るいポップでキュートなアイドルソングが多いと思われる。

 前者の強いメッセージを込めた楽曲や、『てもでもの涙』や『命の使い道』などといった少女の悲哀や満たされない思いを描いたダークな楽曲が好きな自分にとって、この傾向は決して満足のいくものではなかった。アイドルソング評論家としても一部で人気を博しているRHYMESTER宇多丸も、初期の『桜の花びらたち』や『スカートひらり』のようなベタベタのアイドルソングに距離を置き、『RIVER』系列を評価していた。

 というわけで、今回のランキングでフラッシュバックのように連続して流された楽曲は、決して自分の好みのものではない、と思っていた。しかし奇妙なもので、これらを休みなく見ていると、「悪くない」と思えてくるのだ。それは先にも述べた、複数の感情が混濁したような言表しがたい感覚なのだが、その「不思議な気分」は、楽曲そのものの特質というよりも(実は特質も関係しているんだけど)、楽曲によって引き出された記憶に由来するものではないかと考える。

 今でこそAKBオタの自分だけど、中高生の頃は猛烈なハロヲタだった。CDは欠かさず欠い、テレビ番組はすべて録画して何度も鑑賞。ゲームも買ったっけ。スペースヴィーナスね。んで、ここで重要なのは、ぼくはAKBを通じて、この頃の記憶を想起しているのではないかってことなんだよね。つまりこういうこと。AKBの登場も楽曲も、ここ数年のことだ。正確には、2005年末の劇場デビューにはじまる。でも本格的に関心を持ったのはここ2年程度のものだ。ぼくのAKB体験はその程度の短期の希薄なものに過ぎない。しかしAKBのシングル曲の絶妙な「ベタさ」や「古さ」、それを喜んで享受し、「カワイイあの子」の「最高の瞬間」を必死に探している体験のひとつひとつ、そうしたAKB体験の全てが、中高生の頃にハロに対して自分が体験したこととオーバーラップし、10年の時間を超えて記憶を連結させて「懐かしさ」を感じさせているのだ。

 記憶は常に芋づる式に掘り起こされるもので、この「懐かしさ」はアイドルに対する「懐かしさ」だけではなく、ここ10年以上のぼく自身の人生の記憶が否応なしに頭に往来してしまう。当時も今もぼくはアイドルが好きだったし(好きであるし)、当時も今も中途半端でなりたい自分になれていない。当時も今も現実感覚が希薄で、行動して変わることにたいして臆病。でも当時も今も、そんな自分の人生を悪くないと思ってる。おそらく多くの人は、自分の過去の記憶や、記憶に基づく自分の人生に対する評価を、こんな風に、多少の反省や述懐をもちながらも肯定的に捉えるのだろう。それは、ある程度年齢を重ねた人間には、共通して訪れるある種の諦念に類する感覚であるのかもしれない。でも、ぼくはひねくれているからだろうか、そうした思い出のパッケージングを全面的に肯定できるわけでもない。こうしたことを挙げればキリがないのだろうけど、「あの時どうしてもっと必死にならなかったのか」「あの時どうしてあの子に言葉をかけることができなかったのか」、そうした終わりなき後悔の念に苛まれて、深夜の孤独な部屋で絶叫したくなる。いや、してる。

 おそらくここ数年の自分の変化として、ものの見方がずる賢い方向に変わったと思う。恵まれない環境も、ほんのちょっとだけ視点を変えれば、美しく見えてしまう技術が身についてしまったのだ。毎日の退屈な路地の光景も、気分が変われば唯一無二の素晴らしい光景に変わる。そうした感性はロマンチックだろうし、女の子を口説くテクニックとしては悪くないだろう。でもその技術が悪い方向に働いてしまっているのかもしれない。悪くないが、現状を肯定し、それを打破する可能性の模索を諦め、努力を延期する根拠として機能しているのだ。

 「思い出に甘えてはいけない」なんて使い古された箴言もあるけど、記憶の連鎖による、ほとんど無条件のような自己肯定を、過去の美化として閉じ込め、現状追認のロジックとして働かせるのは、何とも不健康だろう。趣味ー記憶ー自我の共犯的な内閉化に完結することなく、これを打開し、自分の不全や未来につなげるためには、どうすればいいか。その方向性が試みられるべきだろう。NHKの短い、決して力が注がれたとはいえないAKBの特集が、そんなことを考えさせてくれた。