少女漫画の構造化された形式性への批判精神を『ストロボ・エッジ』に見る

 ある作品を良作であるとして推奨する場合、私たちは何に基づいてその判断をくだすのだろうか。それは他の何にも交換不可能な唯一無二の感動体験か、歴史的に醸造された表現形式の保守か、それとも個人の感情移入を超越した普遍的な美の顕現であるのか。

 2007年7月号から三年間、「別冊マーガレット」にて連載された少女漫画、咲坂伊緒ストロボ・エッジ』にて描かれた、幾度の変容、分化、統合を経ながら形成された少女漫画に固有の形式に対する批評的眼差しは、私たちが作品を語るにあたって準拠するべき価値観を再考する機会を与えてくれた。

 今回は、少女漫画としては久しぶりの目の覚めるような良質の作品である本作の、ある人間関係の変化に注目することで、現代の少女漫画が抱えるある問題点に標準を定め考えたい。

 『ストロボ・エッジ』の物語上の設定を要約してしまえば、それは凡庸すぎるほど凡庸だ。舞台はある高校。容姿も平凡だが素直で純粋な性格ゆえに周囲から慕われている高校生の木下仁菜子が、勉強、スポーツともに優秀のクールな男子、学校中の女子の憧れの的である一ノ瀬蓮に恋をする。仁菜子は自分とは到底釣り合わないと謙遜していた蓮と、ふとした偶然から接近し、徐々に彼に対する思いを強くする。物語途中、複数のライバルの登場を経つつも、最終的に仁菜子と蓮の恋愛は達成されることとなるだろう。

 こうした「憧れの人物との恋愛達成」という基本軸は、少女漫画の定義と構わないような王道の展開であり、なんら新鮮味はない。それでは平凡なストーリー展開の本作が、凡百の少女漫画と異なる点は何か?それはストーリーの進行スピードと、展開に起伏をもたらすための「事件」の徹底的排除である。いくつかの例外を無視すれば、少女漫画は恋愛を描かなければならない。恋愛を描くことこそが少女漫画の本質であり、その定義そのものである。逆にいえば、恋愛を描かなければ、それは定義上、少女漫画ではあり得ない。この原則は、これまで出版されてきた無数の少女漫画の主題を振り返ってみれば、それほど的外れなものではない。今回は詳述しないが、70年代の少女漫画変革期に限定しても、大島弓子岩館真理子陸奥A子、里中満智子池田理代子は言うに及ばず、萩尾望都山岸凉子ら、性を積極的に表現せず、SF、ファンタジーなどの文学性を重視した作家ですら、恋愛と無縁だったわけではない。

 少女漫画の定義によりテーマが恋愛の達成に限定されている以上、それが障害を乗り越えて恋愛を成就させる〈障害の超克モデル〉であれ、複数の登場人物の複雑な関係の力学への共感によって、そうした「予定調和」を相対化する〈関係への耽溺モデル〉であれ、作家はストーリー進行のため、半ば義務的な表現上の要請に縛られることになる。それは「事件の連続的生起」である。「少年ジャンプ」に典型的な少年漫画ならば、次々現れる敵に立ち向かい、激しい戦闘によりこれを乗り越え、能力的に、精神的に成長するプロセスを反復することによって、読者の主人公への共感と自己肯定がなされる。バトルシーンとドラマシーンの往還によって表現上のメリハリもつきやすい。ところが少女漫画の場合、こうした表現上の起伏を演出するのが極めて難しいのだ。限定された舞台装置(学校、職場と郊外のアパートの往復、勤めていた会社を退職して5年振りの帰郷先)に拘束され、登場人物の関係が微細に変動させることで物語を進行させる少女漫画にて、少年漫画のような起伏をもたらすための選択肢はただひとつ、ひたすら事件を生起させる以外にない。

 例えば、学園を舞台とする〈障害の超克モデル〉ならば、「学校のみんなが憧れるイケメン男子への接近を妬む周囲の女子による集団的いじめ」「二人の関係を快く思わない厳格な母親の介入」「親愛なる人物の離婚、転居、事故、死亡による精神的トラウマ」として「事件の連続的生起」は具現化する。主人公が意中の相手、もしくは親友と協力して、これら障害に立ち向かい克服するプロセスの描出によって、ストーリーに起伏がもららされ、読者は単調な関係性にメリハリをつけて読むことができる。

 このような少女漫画の〈スペクタクル化〉は、ここ20年の間、明白に進行したように思われる。この流行の変化についてはさらに詳しく考察されるべきだが、思いつくだけでも、少女漫画の舞台設定の「学校化」、モノローグと比喩の減少、「内面への没入」から「危機への反応」などといった傾向の変化を挙がることができる。

 こうした少女漫画の歴史的前提を踏まえると、本作が極めて平板で何も起こらない作品であることがわかる。「事件の生起」が極小的なのだ。確かに正確には、物語を進行させるための何らかの事件は起こっている。それは父親の再婚に対する大樹と麻由香ら姉弟の反発であり、安堂による蓮と真央の浮気現場の目撃であり、仁菜子と安堂に絡むヤンキーの暴力なのだが、これら事件は、決して物語の中心に据えられるわけではない。というよりも、直接的にはこうした事件をストーリー進行の契機としながらも、それに翻弄される人物といったありきたりな単線的展開は後景に退いており、主軸はあくまで、それにより変容する微細な関係の推移に定められている。

 そうした「事件の拒否」を象徴的に描かれるのが、「仁菜子の蓮への気持ちの徹底的な抑制の努力」と「真央の登場による三角関係成立の拒否」に見る「〈スペクタクル化〉の回避」である。仁菜子が蓮を好きにもかかわらず、その思いを抑制する理由は、物語序盤では蓮にすでに麻由香という彼女がいるという事実に対して謙虚になっているためである。しかし彼女は、蓮が麻由香と別れた事実を知った後もその信念を貫き通す。その行動の理由は、仁菜子と三角関係にある二人、蓮と安堂の過去に遡る。今では友人ながら距離を保つ二人はかつては親友だったらしい。その関係が破綻したのは、中学時代、後輩の女子の杉本真央を巡るいざこざに由来する。当時、蓮を狙っていた真央は、彼に接近するために蓮の友人である安堂を踏み台として近づくのだが、それがきっかけで二人は付き合うことになる。しかしあくまで偶発的関係に過ぎない関係に真央は満足することができず、衝動的に蓮にキスした瞬間を安堂によって目撃され、真央と安堂は別れてしまう。この「事件」以降、それまで親友だった蓮と安堂の間には溝ができ、絶縁はしないものの、距離を置くようになっていた。

 高校にて再び登場した真央は、仁菜子に過去の事実を話してしまい、自分と同じポジションにいる(と真央が解釈する)仁菜子が自分と同じ轍を踏むことで、蓮と安堂の関係を再び破綻させないように図々しくも求める。つまり、(1)真央→蓮、が(2)真央→←安堂にシフトし、偶発的な(3)真央→←蓮によって、(2)と、(4)蓮→←安堂の関係も破綻したという真央自身の経験を、真央を仁菜子に置き換えた関係として反復することを忠告するのだ。もちろんこの忠告は慈善事業で行われているわけではなく、仁菜子と安堂のカップルを成立させることによって、蓮と安堂の関係の破綻を防止すると同時に、「フリー」となった蓮を未だにつけ狙う牽制も兼ねる、真央の二重戦略に他ならない。

 こうした複雑な関係の推移は、物語上の予定調和的な平穏に暗雲をもたらす。それはこの展開が、蓮がモデルの年上彼女である麻由香との別れによる失意と決別し、ついに主体的に仁菜子への好意を安堂に対して表明する直後に描かれている事実に明白に見出すことができる。つまりこのシーンは、蓮と同じく仁菜子を狙う安堂への宣戦布告の直後、読者が三角関係の成立を確信した直後に挿入されているのだ。それによって、少女漫画に平凡な三角関係内部の戦略ゲームの成立を撹乱するかのような「過去の女」の再登場は、テンプレート化した関係の成立による少女漫画のスペクタクル化を周到に回避する効果を物語にもたらしている。既存の漫画に対する批判精神を抱きながらも、そうした攻撃性を読者に感じさせることなく繊細な演出技法で覆い隠しながら物語を推移させる展開と演出技法に、作者のしたたかさが伺える。

 作者がすでにテンプレート化した少女漫画の形式性、つまり「事件の連続的生起」による「関係の相互読み合いによる戦略ゲーム」という〈スペクタクル化〉を拒んでいるのは、この三角関係の成立と断念が、コミックの8巻に描かれている事実にもうかがい知ることができる。10巻で完結する本作で、8巻での成立は明らかに遅すぎるのだ。通常ならば関係を構築し、ストーリーを盛り上げるためには、最初の数回で早々にこの関係を成立させる必要があるにもかかわらず。

 しかし、デビュー作『CALL MY NAME』から10年の作家によって描かれた、少女漫画の〈スペクタクル化〉に対する批判精神は、決して「事件の生起」や「三角関係」を、攻撃的に挑発するわけではない。それは決して多いわけではない登場人物による日常的会話のふとした瞬間、情報不足から安易に他者を恨む不信ベースの戦略的読み合いに陥らない爽やかな会話の連続によって、批判精神が無意識的に作品内に滑りこみ、不自然さを感じさせることなくページをめくらせる。およそほとんどの読者は、作者による卓越した技巧に気づくことなく、ストーリーを読み進めてしまうのではないだろうか。

 今回は、したたかな作家による良作を、分析の眼差しで暴力的に解体するわけでもなく、個人的体験と結びつけた安易な共感で終わらせることもなく、良作であることを認められることすら謙虚に断る素振りすら見せている一本の作品をささやかに勧めることで文章を終えよう。