三浦光彦「遠隔結合された外的網膜としての映画 ―エドガール・モランの映画論とその射程」『映像学』2025 年 114 巻 p. 97-118

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本稿は社会学者・人類学者であるエドガール・モランによる映画論『映画あるいは想像上の人間』が有する射程を現代的な観点から再評価することを試みる。モランによるこの著作は、これまでの映画理論史においてほとんど顧みられることがなかったが、そこに記された理論は既存の映画記号論や映画身体論をも乗り越えうるような理論的枠組みを提供している。現代の人類学や神経科学の知見を援用し、モランの議論に修正を加えることによって、映画のメディウム・スペシフィシティを巡る問いに対して、新たな角度から光を当てることが本稿の目的である。まず、モランの映画論全体を概観する。とりわけモランが映画経験の特徴を形容するうえで使用した「融即(participation)」という言葉に焦点を当てて、モランの映画論の独自性を探る。次いで、モランの立論の妥当性を存在論的転回以降の人類学、および神経科学の観点から再考する。とりわけフィリップ・デスコラによる存在論の四類型に関する考察を参照することによって、モランの曖昧な記述を精緻化することを目指す。最終節では、モランが映画の仕組みを説明する際に使用した「遠隔結合された外的網膜」という言葉が、現在のメディア環境における映画の立ち位置について考えるうえで有用な射程を提供するであろうことをクリスチャン・メッツやトム・ガニングの議論との比較を通じて主張する。