富永健一「産業主義の思想と戦後日本の社会」『社会学評論』2008年, 59巻, 1号, p.75-93

本文

1. 産業主義ないし産業社会という語は,サン-シモンが彼の思想のキイ・ワードとして作り出したもので,フランス革命(イギリス産業革命がこれに先行していた)後に建設されるべき,産業に基礎をおいた新しい社会体制を意味した.コントはサン-シモンからの影響により,産業主義の主唱者の一人になったが,産業主義の語よりも実証主義の語を中心に用いることによって,サン-シモンから独立した.スペンサーは軍事型社会から産業型社会へという進化テーゼを提出したことによって,産業型社会という語の中心的な推進者となった.
2. 第二世代のデュルケームは,サン-シモンの産業主義とコントの実証主義を統合することを考えた.産業主義はその近代科学の発展を,分業の社会的機能を取り込むことによって,社会の組織化に向けるものでなければならない,というのがデュルケームの主張であった.同じく第二世代のジンメルは,産業社会を,貨幣を媒介とする経済的交換の社会として考えることにより,「産業」という観点から「経済」という観点へと切り替えた.同世代のヴェーバーは,視点を「経済と社会」へと拡大し,貨幣経済を実物経済と対比して,産業社会における貨幣の重要性を浮上させた.
3. 日本は戦前,西洋の先進諸国に追いつくために,近代社会を産業型社会としてではなく,軍事型社会として形成したが,戦後は軍事型社会から訣別し,1955年に始まる高度経済成長によって,産業型社会になった.75年,日本は77%が「中流」帰属を表明する社会となったが,80年代以後,市場原理主義規制緩和の政策を採用し,高度経済成長が築いた「平等化と福祉」の社会をみずから壊して,「産業主義の悪化」を生み出した.これを再び「よい社会」に向け変えるためには,「社会政策」を展開することによって,産業主義の悪化を克服することが課題である.