梶丸岳「掛け合い歌が駆動するソサイエティ 秋田県の掛け合い歌「掛唄」の場をめぐって」『文化人類学』2018年, 82巻, 4号, p.464-481

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societyにはあるまとまりを持った人々の統合体という意味と、人々の相互行為を指す意味があ り、日本語では前者を狭義の「社会」、後者を「社交」と呼び分けることができる。社交は社会を 考えるうえで本質的な重要性を持っている。本稿は会話分析の手法も取り入れながら、秋田県で歌 われている掛け合い歌「掛唄」の場を支える社会と掛唄の場の相互行為を分析し、ジンメルの「社 交」やオークショットの「統一体」「社交体」概念を手掛かりに掛唄の社会の在り方と、それを駆動 しているのはなにかを明らかにする。

まず掛唄の「社会」について見てみると、掛唄の歌い手たちは日常ではあまり関わりを持っては おらず、掛唄が統一体的な意味での「社会」を再生産しているとは言い難いことがわかる。いっぽ う、掛唄大会そのものを運営している保存会については、日常的な「社会」によって人々が集めら れている。ここから、掛唄は「社会」によって維持されていると言える。

次に大会の様子を見てみると、掛唄大会の本番はある程度の緊張感に包まれ全体として優勝を目 指した「遊び」として組織されている。いっぽう、打ち上げである「直会」では大会より自由で「遊 び」らしい掛け合いが行われる。また、直会の掛け合いでは次の歌い手を選ぶやりとりが掛唄の脇 で進行しており、そこには歌い手同士の社会関係も関わっていることがわかる。

以上の分析から、掛唄の社会がオークショットの言う「社交体」に近い存在であることが浮かび 上がってくる。そして掛唄は歌であることによってやりとりを統御しジンメル的な意味での「社 交」に近いやりとりを成立・駆動させるエンジンとなっていることも見えてくる。このエンジンを 動かしているもののひとつが、掛唄の規則が生み出す緊張感に基づく「楽しさ」である。