R・ハーカー, C・マハール, C ・ウィルクス編著『ブルデュー入門−理論のプラチック』(1990=1993)

ブルデュー入門―理論のプラチック

ブルデュー入門―理論のプラチック

  • 作者: R.ハーカー,C.ウィルクス,C.マハール,Richard Harker,Chris Wilkes,Cheleen Mahar,瀧本往人,柳和樹
  • 出版社/メーカー: 昭和堂
  • 発売日: 1993/04
  • メディア: 単行本
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本書はこれからの社会理論の基本となるであろうブルデュー理論の全貌を、民族誌、教育、階級、文化消費、言語、知識人といった、彼の進める探究領域に即した網羅的に概説する絶好の入門書である。

第1章 基本的な理論的ポジシオン
第2章 ピエール・ブルデュー―知の投企
第3章 ブルデュー民族誌―反省性、政治、プラチック
第4章 ブルデュー―教育と再生産
第5章 ブルデューの階級
第6章 ディスタンクシオンの行為―見る者の目
第7章 言語、真理そして権力―ブルデューの代理執行機関
第8章 ブルデューにかんするブルデュー『講義』という講義を学ぶ
第9章 結論―批判

10 リチャード・ナイス「大部分の最近のブルデューの仕事の主要な関心は、経済資本と象徴資本の相互変換可能性が、資本主義的「合理化」にもかかわらず、どの程度依存として存続し、どの程度実際にさまざまな支配関係を維持する痴漢不可能な機能を果たしているかを検討することだったのです」
11 ブルデュー「60年代の主要な問いはこうでした。象徴構造を経済構造とどのようにつなぐかでした。この見方はいまや過去のものとなり、場と戦略(ハビトゥス)の使用によってのりこえられています」
12 (ハビトゥス×資本)+場=プラチック
13「それゆえ、場は部分的に自律的な、諸力の場であり、同時にその内部でポジシオンをめぐる闘争が行われるような場でもある。これらの闘争が、諸力の場を転換ないし維持すると解されている。さまざまなポジシオンは、行為者への種別的な資本の分配によって決定されている。このように行為者は、場のなかに位置づけられる。いったん獲得されたポジシオンは、ハビトゥスと相互に作用しあいながら、さまざまな態度(ポジシオンをとること)を産出しうる。これらの態度は、場のなかでの「ポジシオンをとること」のエコノミーにたいして自立した効力を有している」
16 ブ「ハビトゥスは、構造化され客観的に統合されたプラチックの生成基盤として機能する、持続的で、痴漢可能なディスポジシオンのシステムである」
ハビトゥスとは、客観構造と個人史の局面を通じてつくりだされ最定式化されるディスポジシオンの集合をさす。ディスポジシオンは、ある場の内部での社会的ポジシオンにおいて獲得されるものであり、そのポジシオンにたいする主観的な調整を含意している」
117「われわれの支配的な経済制度がすでに経済資本を所有している人々にとって好都合に構造化されているのとまったく同様に、われわれの教育制度は、支配的な文化集団のハビトゥスというかたちで、すでに文化資本を所有している人々にとって好都合に構造化されている。学校というものは、ブルデューが論じるに、支配的な文化集団のハビトゥスを、自然で唯一ふさわしい種類のハビトゥスであるとみなし、あたかも子どもたちがそのハビトゥスに平等に接近してきたかのように、すべての子どもたちを扱っている」
128「不利な状態にある集団を支配するこうした権力をブルデューは象徴権力−「言明することによって所与のものを構成する権力」−と呼ぶに至っている。現実…とくに社会的現実…の構成原理を押しつけるこの権力は政治権力の主要な次元とみなされている」
178「生活様式にみられる嗜好の規則性が、文化的な区分やディスタンクシオンの効果をつねに潜在的に生みだそうとする社会的な規則性によって産出されるということである。ブルデューにとって、このディスタンクシオンという概念は、差異と卓越の二つの意味をもっており、美的な判断にかんする一つの社会的な批判を開いていくための理論的な鍵である。というのも、そのディスタンクシオンは、食の嗜好、服装のスタイル、スポーツへの興味といった日々の文化の様相と同じように、相対的なディスポジシオン(ハビトゥス)によって生成される文化的なプラチックであるからだ。こうした、美的なディスタンクシオンは、社会空間におけるさまざまなポジシオンを明らかにする」
187「集団ないし階級のハビトゥスが、個人のディスポジシオン(認識し行為する潜在力、傾向性、能力)のなかに存在しているがゆえに、こうしたディスポジシオンは、個人に先立って存在し、集団や階級に付随する物質的な存在条件のなかで社会的に構成されてきた、各個人のなかでの客観的な規則性、関係、構造の身体化である。したがって、個人はそれぞれ特定の仕方で認識したり行為する性向をもつ。それはまた、意味のある意図をともなって行為することであり、それゆえ、各々がしようとすることを選択するということである。とはいってもディスポジシオンは、機械的な動因でもなければ自発的な衝動でもない。ディスポジシオンによって、われわれは行動にたいする可能性の再認が可能となると同時に他の可能性を再認するのを妨げる。総合すれば、ディスポジシオンは、「規制された即興の持続的に据えられた生成原理である」ハビトゥスを構成しているのである。したがって、ハビトゥスはプラチックを生成するとともに、プラチックの可能性を限界づけている」