千葉雅也著『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)

“もっと動けばもっとよくなる”“もっともっとつながりたい”…動きすぎ、関係しすぎて、ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか。待望のドゥルーズ入門。

序 切断論
第1章 生成変化の原理
第2章 関係の外在性―ドゥルーズのヒューム主義
第3章 存在論ファシズム
第4章 『ニーチェと哲学』における“結婚存在論”の脱構築
第5章 個体化の要請―『差異と反復』における分離の問題
第6章 表面、深層、尿道―『意味の論理学』における器官なき身体の位置
第7章 ルイス・ウルフソンの半端さ
第8章 形態と否認―『感覚の論理』から『マゾッホ紹介』へ
第9章 動物への生成変化
エピローグ―海辺の弁護士

25
[rakuten:takahara:10246425:detail]
43

ゴダール的方法

ゴダール的方法

45
ドゥルーズ入門 (ちくま新書)

ドゥルーズ入門 (ちくま新書)

74「蓮實の解釈では、ドゥルーズの「と」においては、相反する接続と切断が、矛盾の乗り越えをすることなく、併せて考えられている」「「と」、とは、明確な境界線の明示を指名として持ち、並置された二要素のみだりな溶解や性急な二者択一、一方から他方への演繹または帰納、あるいは弁証法的な対立関係を先験的に生きるものではない」『批評あるいは仮死の祭典』63 「離接的総合 synthese disjonctive」
104(メイヤスーの)「『アフター・フィニチュード』では、カント以後の近現代哲学においてメジャーな前提を「相関主義」と呼ぶ。相関主義とは、思考者から独立した事物へ直接に「アクセス」することは不可能でありーすなわち、前近代の「素朴な実在論」は不可能でありー、哲学は、思考の何らかの条件と相関する限りでの世界のみを扱う、という考えである」「メイヤスーは、哲学から〈相関メディア〉を除去しようとする」
107「メイヤスーは、唯物論に立ちながら、この世界の物理法則は偶々このようであるにすぎないと主張する。この立場は「思弁的唯物論」と称される。物理法則は、物理世界全体で働く関係づけの原理であり、物理世界全体の根底が、理由なしにになるのである」
113
ベルクソンの哲学―生成する実在の肯定

ベルクソンの哲学―生成する実在の肯定

124〈事物の因果性は観想=縮約プロセスの連鎖である〉『哲学とは何か』
133
ベルクソン聴診する経験論

ベルクソン聴診する経験論

135「ホーリズムという概念は、部分への「還元主義」ー全体は部分の総和であり、部分へと分析できるという考えーに反対する立場、すなわち、統合された全体においてのみ、部分がその存在意義を与えられるという考え」
149
瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論

瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論

150 「或る別の時間」=第二の総合においては、代理ー表象する大文字の《現在》=純粋過去(ベルクソンドゥルーズは代理ー表象メカニズムに批判的だった。ならばドゥルーズにおける純粋過去の扱いは?「純粋過去は、「過ぎ去らないし、到来もしない」のであり、「過ぎ去るということの究極の基礎としての時間の即時」である。純粋過去は、「全体」たる「潜在性」と規定される。他方で、「それぞれの現在は、[純粋過去の]諸水準のひとつを現働化[actualiser]、あるいは代理-表象しているだけである」。ベルクソンに由来するドゥルーズの潜在性の概念は、「現働化」としての代理-表象を、従属させる。現働化と代理-表は、同義語として扱われる。現働的=代理-表象的なる《現在》は、潜在的な、つまり代理-表象されざる時間、「かつて現在であったためしがない《過去》」によって根拠づけられる。純粋過去は、潜在的な大文字の《過去》であり、時間の全体性である」
182「デリダドゥルーズガタリ東浩紀、メイヤスーにおいて批判された否定神学的なXとは、事物を接続する関係、ないしコミュニケーションの余地に限りがないことの唯一の保証であり、これはいわゆる「関係主義 relationalism, relationism」ーあらゆる事物は互いに(潜在的に)関係しているーを採った上での、普遍的な関係可能性の唯一の保証である。逆に、〈複数的な外部性〉の思考は、普遍的な関係可能性の唯一の保証を粉砕する思考である」
211
ニーチェと哲学 (河出文庫)

ニーチェと哲学 (河出文庫)

242
瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論

瞬間と永遠――ジル・ドゥルーズの時間論