山田宏一『わがフランス映画誌』(1990)

わがフランス映画誌

わがフランス映画誌

フランス映画といえば、もうこの人以外にはないといわれる山田宏一の、とっておきの〈フランス映画私誌〉。美女あり、また裏方ありのインタビューを交え、魅力の万華鏡を展開。

シネマトグラフ年代記
 パノラマとジオラマ
 リュミエールとメリエス
 連続活劇とフィルム・ダール
 第7芸術とフランス印象派
 アヴァンギャルド映画の興亡
 サイレントからトーキーへ
ルノワールからゴダールまで
 素晴しき放浪者ジャン・ルノワール
 ルノワールからゴダールまで
天井桟敷の人々』物語
 『天井桟敷の人々』物語
 犯罪大通りからサンセット大通り
ヌーヴェル・ヴァーグ前夜
 フランス映画のある種の傾向
 ヌーヴェル・ヴァーグ前夜―ジャン・ピエール・メルヴィル
 ジャズ、シネマ、ヌーヴェル・ヴァーグ
美の味方
 シャネルの星の下に―アラン・レネの美学
 『エマニエル夫人』とポルノ解禁事情
 フランス映画の美顔術
フランス的な、あまりにフランス的な
 永遠のジャン・ギャバン
 カンヌ映画通り
 エリック・ロメールの格言劇

32 メリエスエドワード7世戴冠式』(1902)
37 メリエス『妖精の王国』(1902)
37 ジュゼッペ・デ・リグオーロ『ファウストの破滅』(1903)『ダンテの地獄編』(1909)
38 ピエロ・フォスコ(ジョヴァンニ・パストローネ)『カビリア
39「1900年の初めには、シャルル・パテーのパテー映画社とレオン・ゴーモンのゴーモン社が台頭し、フランスの二大映画会社に発展する。とくにパテー映画社は1903年から1909年まで「パテー映画時代」とよばれるほどの隆盛であった」
47 フィルム・ダール(映画芸術
48「アドルフ・ズーカーが『エリザベス女王』を全米で公開して大ヒットさせ、フィルム・ダール社の映画づくりをモデルにパラマウントの前身であるフェイマス・プレイヤーズ社を創設したことはよく知られている」
50「世界最初の女流監督として知られるアリス・ギーが結婚してアメリカに去った後を継いで製作責任者兼監督となったルイ・フイヤードのちからで、ゴーモン社は1910年代半ばには完全にパテー社を追い越してフランス映画界の覇者となった」フイヤード『ファントマ』(1913-14)『ドラルー』(1915-16)『ジュデックス』(1917)
55「1902年からパリに住んでいたイタリア人のリッチオット・カニュードがあたらさいい芸術運動の推進者の一人となり、みずから「映画批評家」を名のって、時間の芸術(音楽、詩、舞踏)と空間の芸術(建築、彫刻、絵画)をつなぐ新しい芸術、すなわち「第七芸術」と映画を定義するのが1910年代で」
69 『水の娘』
72

映画愛―アンリ・ラングロワとシネマテーク・フランセーズ

映画愛―アンリ・ラングロワとシネマテーク・フランセーズ

73 エルンスト・ルビッチ『寵姫ズムルン』(1920)、フリッツ・ラング『ニーベルンゲン』(1922)、ムルナウファウスト』(1926)、ヴィクトール・シェーストレーム『霊魂の不滅』(1921)、マウリッツ・スティルレル『イェスタ・ベルリング物語』(1924)、エイゼンシュテイン『十月』(1927)、プドフキン『母』(1926)、『アジアの嵐』(1928)、シュトロハイム『愚なる妻』(1922)、『グリード』(1924)、ジェームズ・クルーズ『幌馬車』(1923)、ラウール・ウォルシュバグダッドの盗賊』(1924)、ジョン・フォード『アイアン・ホース』(1924)。匹敵するのはアベル・ガンス『ナポレオン』だけだった。
75「1920年代にフランスのサイレント映画に興味ある役割を果たした亡命ロシア人の映画集団「アルバトロス」」「監督のアレクサンドル・ヴォルコフ、ヴィクト・トゥールジャンスキー、ディミトリ・キルサノフ。俳優のイワン・モジューヒン、女優のナタリー・リセンコ」「倒産したジョルジュ・メリエスの撮影所を買い取って改築」ヴォルコフ『キイン』(1922)、トゥールジャンスキー『恋の凱歌』、マルセル・レルビエ『生けるパスカル』(1925)、ジャック・フェデル『カルメン』(1926)、ルネ・クレール『イタリア麦の帽子』(1927)。トーキー時代からも、ジャン・ルノワールどん底』(1936)。
77「ルネ・クレールがこのようにトーキーの可能性に賭ける方向へひるがえった背景には、たぶん、1928年にソヴェート映画の三大巨匠とも言えべきエイゼンシュテイン、ブドフキン、グレゴリ・アレクサンドロフが連名で「トーキー宣言」を発表し、「トーキーは両刃の武器」であって、「この技術的発明の可能性」は、音と画を拮抗させるモンタージュ、すなわち音楽における対位法(コントラプンクト)と同じ方法を駆使することにあり、音と画の「非同時性」こそ新しい映画につながると主張したことに敏感に対応したところもあるにちがいない」
78 イギリスの撮影所を借りてフランス最初のトーキー、アンドレ・ユゴン『三仮面』(1929)。アンリ・ルセール『夜はわれらのもの』、ルネ・クレール『巴里の屋根の下』、サッシャ・ギトリデジレ・クラリーの奇妙な運命』(1941)、マルセル・レルビエ『黄色の部屋』(1931)、ジャン・コクトー『詩人の血』、ルイス・ブニュエル『黄金時代』を頂点にアバンギャルドの消滅。
80 ジャン・ルノワール女優ナナ』(1926)、『マッチ売りの少女』(1928)、トーキー時代の『牝犬』(1931)、『素晴しき浮浪者』(1932)のほうがずっとすごいとトリュフォー
82「ジルベール・コアン=セアの「映画学」(武田訳「映画哲学の諸原理に関する試論」岩本・波田野編『映画理論集成』所収)
83「ジョルジュ・サドゥールによって「戦前の四巨匠」と呼ばれることになる『外人部隊』(1936)、『ミモザ館』(1935)、『女だらけの都』(1935)のジャック・フェデル、『我等の仲間』(1936)、『望郷』(1936)のジュリアン・デュヴィヴィエ、『ジェニイの家』(1936)、『霧の波止場』(1938)のマルセル・カルネ、『大いなる幻影』(1937)、『獣人』(1938)、『ゲームの規則』(1939)のジャン・ルノワール
109 ブロンベルジュ、ニューヨークのアストリア撮影所へ。MGM製作担当副社長、ハリウッドの撮影所長アーヴィング・タルバーグに学ぶ。
129 ブロンベルジュ「ラングロワはすばらしい記憶の持ち主で、すべての映画のすべてのカットを克明に覚えているけれども、そうした記憶の数々を再構成して何かを生みだすということになるとまったくだめなのです。鑑定や批評は創造とはまったく別物だということがわかります」
140 ジャン・ルノワール『ピクニック』
228「ジャン・ルノワールアベル・ガンスジャン・ヴィゴの三人をのぞけば、戦前のフランスの映画監督はすべてこの(「良質の伝統」の)知的・文学的な洗礼を受けています」
243 ジャン・ヴィゴ『新学期・操行ゼロ』『アタラント号
245 トリュフォーアラン・ドワンとか、ラウール・ウォルシュとか、ウィリアム・A・ウェルマンとか、テイ・ガーネットとか、マイケル・カーティスとか、エドガー・G・ウルマーとか、ジャック・ターナーとか。そういったハリウッドのすぐれた職人監督に匹敵する存在がフランス映画には欠けていた」