『猿の惑星:新世紀』感想

 マット・リーヴス監督『猿の惑星:新世紀』は、ここ最近でも最高の映画体験だった。感染症の爆発的拡大により絶滅寸前に追い詰められた人類と、森に囲まれた山奥に帝国を形成する猿という対立する両陣営の均衡と崩壊、対称性と非対称性の物語。劇中、両者の相同性が露骨に反復される。いくつか例を挙げてみよう。

「秘密の共有」:人類のカリスマなきリーダーであるドレイファス(ゲイリー・オールドマン)は、マルコム(ジェイソン・クラーク)ら調査隊が発見した山奥に一大帝国を築き文明を発展させるサルの存在を、わずかに生存した人類にパニック防止のためにも知らせるなとマルコムたちに緘口令を敷く。一方のサル側も、穏健派のリーダーであるシーザーの右腕であり、彼のヒトに対する寛容な考え方に懐疑的な武闘派コバは、部下と自身が発見したヒト勢力の武器庫の存在をシーザーに報告せず、来たるべき「革命」に備えて胸の内に留める。

「贈与と救済」:ヒトのホームの生命線となる発電施設の復旧作業中の崩落事故で生き埋めとなったヒトをサルは救い出し、エリー(ケリー・ラッセル)は病気に罹患したシーザーの妻コーネリアに抗生物質を与え彼女の命を救う。「異分子の憂鬱」:人間の中でも一際サルに対して敵対心をもつカーヴァー(カーク・アセヴェド)は、両陣営の協定に反してサルのテリトリーに銃を持ち込み戦争の火種を生み、かつて動物実験で虐待された過去を持ち、ヒトへの敵意をむき出しにするコバの存在は和平を望むシーザーの悩みの種となるだろう。「父子の断絶」:マルコムは息子のアレックス(コディ・スミット=マクフィー)と良好な関係を築けずにおり、シーザーと息子ブルーアイズも同様の微妙な距離にある。

 こうして様々な角度からの多面的演出により主題として明らかにされるヒトとサルの対称性は、後に傷ついたシーザーが息子に向けて「猿も人間も同じだ」との両者の同一性の確信を口にする前振りとなっている。それだけではない。倫理的にも道徳的にも両者が均衡状態にあることが脅迫的に反復されるからこそ、無口な読書青年アレックスと天才オランウータンのモーリスの肩を並べての朗誦や、生まれたばかりのシーザーの赤ん坊と触れ合うアレックス、エリーの束の間の交流は感動的に映るし、何より素晴らしいのは私たちが両者の均衡が砂上の楼閣と知っているからこそ、来るべき対称性の破れが映像として説話的に語られるその瞬間にスクリーンに充満する緊張感が生半可なものではないのだ。

 アレックスとエリーの手元を離れたシーザーの赤ん坊が、本能的好奇心でカーヴァーの荷物によちよち歩きで接近し薄布を剥ぐと、そこには協定違反で「密輸」された銃口が顔を覗かせる。そのことに一同が気がついた瞬間、刹那的にもその場を保っていたバランスは崩壊。信頼関係を象徴する交友の空間は過去に葬り去られ、サルが堰を切ったようにヒトに跳びかかり、力のままにねじ伏せる弱肉強食の世界へと変わる。静寂から喧騒へ、対話から暴力への瞬間的移行を見事に凝縮して描いたこのシーンは、均衡が崩壊し、対称性が非対称に転じる映画全体の主題を見事に象徴するように思う。

 全体が主題的にも映像的にも完成度の高い本作だが、気になった点も見受けられた。退屈に感じた数少ないシーンが、コバ軍による人類のホームへの襲撃。そもそも、それまで数度の危機的状況に陥りながらも平和を保っていた両陣営の戦争状態への移行が、かつて動物実験で虐待され人間に強い憎しみを持つコバがシーザーの暗殺を目論み、それをヒトの策謀として蜂起を促す自作自演行為に端を発するため、そこにはヒトの愚かさも、サルとの対立も直接的には挟まれる余地がなく、あくまでタカ派コバの独断として片付けてられてしまう。そのため、崩壊に伴う絶望や悲哀の演出に、種の対立という文明的必然性を読み取ることができず、戦争の動機付けとして極めて脆弱に映ってしまうという主題論的瑕疵を見逃すことはできない。

 しかし、それ以上に一連の戦闘シーンを散漫なものにさせているのは、こうした主題論的水準では説明できない映像への不信と演出の怠慢にあるのではないか。たとえば、サル軍の猛攻に怯えるドレイファスが、ロケット砲の標準を、騎馬隊のように馬にまたがりホームに急接近する集団から、その間近にある燃料入りのドラム缶にパンするように変更させ、複数のサルを火炎と爆風に巻き込む演出。あるいは、リーダーにもかかわらず、先陣に立って軍を率いるコバが、乱入したヒト軍の装甲車に馬上から跳びかかり、操縦者を殺害した後、車上の機銃を奪い取り、お返しするようにヒト軍に一斉掃射をお見舞いして一網打尽にする長回しのフィックスショット。これらは、映画的というよりもアクションゲームを意識的に模倣した演出と思われる。

 実際のところ、カメラはドレイファスやコバの視点に同一化した位置(FPS)、ないし彼らの横に沿うような位置(TPS)に置かれ、パノラマ的カットが多用されるため、両陣営が群衆的に入り乱れる白兵戦の空間を俯瞰的に収めようとする意図が極めて希薄に感じられる。誰がどこにいるかという位置関係がまるで把握されていないのだ。こうした映像的不信が、多少の冒険心と気の迷いによるものだということは、ラストのタワー頂上の決戦の完成度と比較すればよくわかるが、それだけに落胆させられた。

 もっとも、こうした多少の不備をマイナスしたところで、本作がその辺りのハリウッド大作とは比べるべくもない作品であることは疑いようのない事実である。普通の映画を普通に楽しむことすらできなくなりつつある昨今の世界的な映画の潮流にて、『猿の惑星:新世紀』のような平凡な作品を見ることができること自体が、時代に不釣合いな僥倖なのかもしれない。