朝日新聞による池上コラム拒否問題に関連してーメディアのシステム

 「新しいもの News」を追い求め、報道するのがマスメディアならば、対象を「情報/非情報」のコードに従って「内/外」に帰属するシステムがその定義ということになるだろうか。要素がその新規性、未知性を帯びているため、情報として一旦システム内部に帰属されてしまえば、すなわち、情報として伝えられてしまえば、それは既知の情報として認識されるため、直ちにシステムの構成要素たる資格要件を失ってしまい、システムとしてのマスメディアは新たな要素を追い求める。このように考えると、要素のネットワークが新たな要素を産出するという意味において、マスメディアは自己産出系、オートポイエティック・システムということさえできる。

 Newsを要素とする自己産出的コミュニケーションシステムとしてマスメディアを了解すると、私たちは日常的に使っているマスメディアの定義を遥かに拡大しなければならないだろう。というのも、この場合のNewsでは、新規性・未知性のみがその要件となるため、扇情的内容、捏造、ゴシップ記事、様々なショービズムを排除しないためである。ならば、読売、朝日といった大手新聞や、NHK、フジテレビといったテレビ局だけではなく、週刊文春サイゾーJ-CASTニュース、はては2ちゃんねるや無数の個人ブログやTwitterまでも"マス"メディアとして扱われるべきだろうか。

 さて、池上彰朝日新聞にて連載しているコラムが、その内容を同紙に問題視され掲載を拒否されたという昨今「炎上」中の件についてである。コラムで扱われた内容が朝日による従軍慰安婦問題の自己検証に関するものであり、事故や事件など現在の事象ではなく「過去の事象・の同紙への評価・に関する外部評価・の同紙への掲載/拒否」問題という些か変則的内容である事実から、本件がNewsの条件に該当しないのではと疑問に思われるかもしれない。だが、同記事はまぎれもなくNewsである。新規性・未知性とは、昨日、今日起きた事件や事故のように、言及の対象となるトピックがに現在近傍で発生した最新の事実であることを意味しない。そうではなく、解釈や解説であろうが、語りに新規性や未知性といった価値が付与された情報であることがNewsの条件なのである。したがって、同コラムも、他記事と同様に「情報/非情報」コードの仕分け対象となる。いや、それどころか、まさに問題とされている「掲載/拒否」判断は、「情報/非情報」の帰属問題の変奏形態とみなすことができるのではないか。

 同コラムにて扱われている吉田調書問題、従軍慰安婦問題ではなくとも、マスメディアが報道した内容に対して、「誤報」「歪曲」「捏造」などの批判が浴びせられるのは、朝日新聞に限ることなくNewsに対する反応としてはすでに日常的なものとして定着している。嫌マスコミ感情、「マスゴミ」言説の精神分析もまた現代の社会学的課題としては興味深いがここで取り上げることはしない。いま確認すべきは、元を辿れば既知とされてきた情報であったとしても、「検証が不十分だった」「事実にもとづいていない」「歪曲報道されてきた」といった言及によって再び評価・分析されれば、それは新規性・未知性が付与され、Newsとして再生されるということである。

 新規性・未知性をNewsとして産出するマスメディアのメカニズムにおいては、掲載されたもの、拒否されたもの、「掲載/拒否」判断に関するもの、あるいは、いかなるゴシップ、スキャンダル、誹謗中傷やそれらへの批判も、Newsたる価値を帯びるという意味では、すべて機能的に等価なものとして扱われる。とはいえ、大手マスメディアに所属するプロの記者によって取材・検証され、それなりの審査を通過した新聞記事と、ネットに出回るような真偽不明な情報が、まったく同じだなどと言いたいわけではない。マスメディアの時代から個人メディアの時代などと、旧秩序から新秩序への大転換のような19世紀的大言壮語を披瀝して、趨勢を占うつもりもない。そうではなく、システム理論というレンズを通してマスメディアという制度を観察したとき、吹き荒れる朝日バッシングのような、「マスメディアのあり方」に対する「正義」や「秩序」めいた言説はどのように位置づけられるのか。それが問われるべきなのである。

 「あり方」への批判も無駄ではあるまい。いや、むしろ記事内容、論考の是非、取材対象との距離、権力とマスメディアの繊細な関係に対する内外からの批判的検証こそが、Newsを伝えるコミュニケーション群として、社会におけるマスメディア固有の存在を可能たらしめているのは疑いない。ならば、マスメディアを擁護・批判する者が共に依拠する「報道のあるべき姿」という規範、あるいは社会的使命や目的は何か。それは、誰によって、どのようにして語り得るのか。システム理論は、こうした問いを否定する。Newsを仕分け、自己産出するマスメディア・システムに規範や目的を措定する超越的外部は存在しない。報道の間に様々な優劣(報道の優先順位、中立性・正確性・過剰性)を制度的テロスに求めることはできない。すべてがNewsとして機能的に等価である以上、「私はこちらを選択する・信用する・好きである」と主張するしか道は残されていないのである。

 それでもなお、「あり方」を語ろうとするならば、マスメディアに対する各々の好き嫌いや信頼度に関する答えのない政治闘争に参与する覚悟を決めなければならないだろう。「敵/味方」の闘技こそが多元社会における民主主義の要件であると考える人びとがそれを望むならば止めはしない。だが、それはすでにシステム理論とは別の意味で超越性を否定しているのはもちろんのこと、相互理解にも合意形成にも到達することはありえない終わりなき闘争宣言のようなものであって、頼りない弁明によってみずからのアイデンティティのせめてもの確からしさを一方的に納得する程度で終わるのが関の山である。既に述べたように、こうした語りこそがまさにマスメディアなのであり、システム内部の自己産出の一部としては、確かに要素の産出の一部ではあるだろうが。「あり方」に対するそれぞれの正義論が、右派左派などの政治的立場や、専門家一般人といった知識の如何に関わらず、まったく退屈で読むに耐えないのも、これら語りが政治化しているためではないか。だが、それもまたNewsという形式にもとづく、マスメディアの世界固有のポリティクスの姿だといえば、そうなのだろう。